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【小説】ジュエリー店 『エピソード』へようこそ。❸

 今日、妻の美智みちに贈り物を選んで帰る予定だった。あいにく外は大荒れだ。窓の外を眺めると、近くの駐車場の看板が剥がれかけて風と雨に煽られている。まばらに街行く人を見ても、傘がまるで役に立っていない。正気なら、出かける用事を中止してこのまま雨宿りをし、雨風がおさまったら家に帰るだろう。こんな日に外に出て贈り物を買いに行ってどこかで怪我でもしたなら、美智は僕をばかだと言って叱るだろう。

 いや、僕はとうにばかなのだ。十花とおかのことを考えると、おかしくなる。雨の日も、十花はビラを配っていたからだ。


 駅へとつながる通路には屋根が付いているから、ビラを配る僕と十花が濡れる心配はなかった。けれど、みんな手に傘を持っているせいか、気がつかぬ間に受け取ったビラを手から落として行くのだ。それが通路内ならいいのだが、駅周辺の屋根のない水たまりにまで落ちていた。

 十花はビラを配り終えるのが早かった。十花は晴れの日よりは時間がかかるが、やはり僕より早く配り終えた。なぜそんなにビラ配りが早いのかはわからなかった。ただでさえ、ビラなんか受け取ってくれる人は少ないのに、十花にはビラを受け取りたくなるような何かがあるのだろうか。不思議とみんな受け取って行った。
 
 十花は僕より早く配り終えると、何も言わずに屋根のある通路からいなくなった。僕もあとから十花を追う。十花は、雨のなか水たまりに浮いたビラや地面に張り付いたビラを一枚一枚拾ってゴミ袋に入れていた。僕も何も言わずにそれに加わるのが常だった。

 ゴミになったビラを拾ったり、二人で投げつけ合ったりしてふざけることもあった。最後は見つけられる限り黙々と回収した。気がつくと十花は僕のところへよってきて、しゃがんでいる僕の背中を膝で押してきた。振り返ると言葉はなく、いつもの、女性のような笑い方で静かに笑った。どこか心を許したかのように。それが終わりの合図だった。


 雨の日に十花が落ちたビラを拾っているのを初めて見たときは驚いた。金が欲しいだけのおまえがなぜ、と思ったのだ。
 「街が汚れるだろ」
 十花は僕を見ずに言って、黙々とビラを拾っていた。僕はそれを見てなんだか腹が立った。
 「街を汚したくないんだったら、くだらないビラなんか配るなよ」
 ほかのアルバイトだって僕たちはやっていた。十花はビラ配りで稼いだお金は遊びのために使っていた。そのうち僕までビラ配りにも遊びにも巻き込んできたのだ。そんな迷惑なやつの口から、街だの人だのを思いやるようなきれいごとが出てきたので僕はむかついて言ったのだ。すると十花は立ち上がって僕に向き直って言った。
 「おまえの言うとおりだよ。でも俺は遊びたいんだよ。休みの日はおまえと一緒に誰かに会って、騒ぎたい。ただそれだけの人間だよ」
 十花は少しイライラしていたようだ。そして僕に背を向けるとぼそっとつけ加えた。
 「でも汚したくないだろ。そう思っちゃいけねえのかよ、俺みたいな人間は」
 俺みたいな人間は—。再びビラを拾いはじめた十花のどこかいじけたような背中に、雨に濡れたTシャツが張り付いて背骨が浮き彫りになっていた。俺みたいな人間。その言葉を、どういう意味で言ったのか。親に捨てられたのか、どんな事情があったかわからないが、どこかの苑で育った自分の生い立ちのことを言っているのだろうか。

 僕はビラを一枚拾った。そして十花が片手に持っていたゴミ袋に入れた。そして降りしきる雨の中で、十花にちゃんと聞こえるように注意を払いながら言った。
 「俺も十分矛盾してるよな。街が汚れるのが嫌ならビラ配るなとか言ってるくせに、お前と遊びたいから金が欲しいと思ってるわ。今気づいた」

 十花は僕をちらりと見た。でもそのとき僕は十花の顔まで見る勇気はなかった。丁度よくビラも落ちていなくて、かわりに小石を拾って水溜りの水面をはらい、ビラを探す振りをした。

 その日から僕たちは、雨の日のビラ配りの終わりには必ず街を掃除した。ほとんど傘もささなかった。

 でもこのとき十花が言った自分の気持ちは、半分は違っていた。僕はそれを、十花が死ぬ直前に知った。









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