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【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❺

 ショッピングモール内の照明は煌々と灯り、音楽も流れていた。客を迎え入れる準備は整っているようだった。けれど客が一人もいないようだ。おかしい。店員も見当たらない。誰も乗っていないエスカレーターが無言のまま昇り降りしている。このまま足を踏み入れるのは罪悪感があった。あのう、誰かいますか?店内に入ってもいいですか?と聞きたい。話ができる存在を探してあたりを見回す。入り口付近のディスプレイに女性と男性と子供のマネキンが立っている。それとその近くに設置されたアクアリウムの熱帯魚が泳いでいるだけだった。

 不意に照明が消えた。音楽も。どうやら停電のようだ。向こうにインテリアの店があるが、キャンドルの形をした照明がいくつか灯っている。おそらく電池式のものなのだろう。僕のずぶ濡れの上着から大粒の雫が滴り落ち、ポツポツと絨毯を叩いているのが聞こえる。僕はしばらく立ち尽くして、その音がそっと鳩尾にも響いてくるのを感じているしかなかった。
 
 すると、突然目の前のアクアリウムの照明が点き、エアポンプが動き出した。魚たちの生命維持のための予備電源だろうか。魚たちは何事もなかったかのように泳いでいる。次の瞬間、すぐ近くでドン、と音がして僕は飛び上がった。マネキンが持っていたハンドバッグが床に落ちたのだ。僕は胸に手をあてて息を漏らすが、こんなときはなぜかおかしくて笑ってしまうものだ。もし十花とおかが一緒にいたら、きっとついでに背中を叩かれてもう一度びっくりさせられただろう。そして十花は言うはずだ。このまま中に入ろうぜ。

 
「松明をくれ——」
 僕は言ってみた。『ロミオとジュリエット』の台詞だ。
 いつか常盤啓吾ときわけいごの演劇のワークショップを受けたときのことだ。僕はロミオを、十花はマキューシオの役をやった。数日間続くワークショップのあいだ、台詞を憶えるだけでも大変だった。期間中の夜の帰り道で、僕と十花は熱に浮かされたようにどちらからともなく台詞を言い合った。「松明をくれ」という台詞は、友人たちとキャピュレット家の舞踏会に忍び込もうとするところ、ロミオが躊躇する場面だ。招待客のひとりでロミオの友人のやんちゃな男マキューシオは乗り込む気満々だ。
 
「松明をくれ。軽い遊び人たちは気楽に踊るがいい。俺は灯り持ちして、引き上げどきを見ている」
「引き上げられたきゃそうしてやるぜ。お前が首までどっぷり浸かった恋の沼からな。お前が重いんだよ。さあ、これは昼間の松明だ、行くぞ!」
「今は昼じゃない」
「ぐずぐずしてれば昼間を照らすように時間が無駄になるってことだ。人の言葉は心で理解しろ」
「舞踏会に行こうという心はある。けれど行こうというのは賢明じゃない」
「心はあるが、賢明じゃない…その心は?」
「実はゆうべ夢を見た」
「…実は俺も夢を見た」
「どんな夢だ」
「夢見るやつは嘘をつくという夢さ」
「正夢だってあるだろう」
「さてはおまえ、マブの女王と一緒に寝たな。彼女は夢を生む妖精たちの産婆役、くるときは…、あー、なんだっけ」
「もういい、くだらん話はたくさんだ」
「おいまだ言ってねえだろ、あのくそ長台詞をよ」
「さあ、行こう、みんな!」
「おまえも端折るなよ、ご丁寧に神に何かお願いする台詞とかあるだろ」
 十花がその長台詞を練習したがるだろうことはわかっていた。僕はふざけて十花に言わせないようにした。
 その日の夜を思い出し、僕はモール内に入ってみることにした。


 どうせ誰もいない。と思う。モールの吹き抜けの通路を、ミュージカルの舞台のように、堂々と進む。この薄暗いショッピングモールも、十花と一緒ならロミオとマキューシオになって歩いたはずだ。いや、十花はジュリエットの役までやっただろう。ならば僕は、スニーカーを履いた女性のマネキンを相手に、キャピュレットをやろう。
「みなさん、ようこそ!楽しんでますか?ヒールの靴を履いている女性は、実はもう足がくたくた、よく見れば、眉間に皺もできて、口角も下がってます!ドレスの下にスニーカーを履いている女性なら、まだ一緒に踊ってくれますぞ!」
 僭越ながらシェイクスピアの代わりに、即興を言ってみる。
 
 あのワークショップでは、与えられた台詞を多少変えてもいいと常盤が言ったので、みんながその日その時代に生きて、その場所に合った台詞やジョークに変えてみた。
 
 みんなシェイクスピアの巧妙な台詞を自分なりに理解し、特に目を引く場面でウィットに富んだ台詞を考えようとするなかで、十花はあまり注目しないようなある台詞にこだわった。「人の言葉は心で理解しろ」というところだ。屋敷に入るのをもたもたしているロミオに、それは昼間の松明のように無駄な時間だと伝える。ロミオは今は昼間じゃないだろうと言うのだが、その後につづくマキューシオの台詞だ。もともとの台本では「人の言葉は善意に受け取れ。分別はいかなる知恵よりも善意にとるときこそ最も賢明と見えるものだ」だった。

 十花はこの台詞の意味がわからないと悩んだ。一緒にいろいろと解釈を考えたのだが、十花は言った。観客が聞いてすぐに理解できない台詞を言ってもしょうがない、役をやる本人もしっくりこないまま言ったってしょうがない。俺にはこの台詞は生かせないから変えると。

 若かった僕たち団員は役を与えられただだけで、その役のすべて、台詞のすべてを理解している気になっていたかもしれない。そして少し舞台経験のあるものは十花ほど無知ではなかったから、台詞の理解が難しいという理由で、かんたんな言葉に変えようという勇気などなかった。僕もそうだった。けれど十花にはそれができた。僕はそんな十花にほんの少し嫉妬したのを覚えている。

 そのときのモヤモヤした気持ちやよくわからない苛立ちを、ショッピングモールの暗がりに向かって叫んでみた。
「おまえはさ、自由でかっけぇんだよ!」

——ワン!
その声に応えるように犬の吠える声が聞こえた。
——ワンワンワンワン!ワンワンワンワン!
 ペットショップがそこにあった。僕が大声を出したので、犬たちが落ち着きをなくしているようだ。
「ああ、ごめんごめん。でも、ワンコールをありがとう!」
 僕は今度は静かに言って、犬たちに手を振ってお辞儀をした。

 
 入口の自動ドアまで来た。僕は立ち止まり、ガラスの扉の向こう側を見た。灰色の雨だ。灰色の雨が斜めに激しく降っている。僕は音もなく息をはぁ、とはいた。

 僕はときどきこんなふうになる。もしも今ここに十花がいたら、こうだっただろう、ああだっただろう、だってこんなことがあったからと、夢を見る。その後で十花はもういないのだと知る。何度も。これからあと何回こうして傷つきながら生きていくのだろうか。

 僕は、十花が死んだ理由を知らなかった。妻の美智みちも、演出家の常盤も、誰に聞いてもわからなかった。

 人の言葉は心で理解しろ。僕と十花はロミオとマキューシオみたいに、たくさんの言葉を交わしてきた。十花は何か言ってはいなかっただろうか。僕は「今は昼じゃない」みたいな言葉を十花に返してしまっていなかっただろうか。もう一度、僕と十花の会話のすべてを巻き戻して聞き直したい。

 僕はもう一度振り返ってモール内の歩いて来た道を見てみる。やはり誰もいない。向こうの入り口と同じで、アクアリウムの熱帯魚たちだけが、優しげに泳いでいた。


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