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【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❶

 電車のドアが開くたびに、なまぬるい風が滑り込んできた。風は音もなく車両内を舐めるように流れ込み、出口を探して迷っては消えた。まだ午前中だったが、空はうっすらと灰色を帯びて暗くなってきている。僕はひと駅ごとに開く電車の扉から少しだけ顔を出し、まだ穏やかな外気を肌で確認した。


 電車を降りて無口に階段を上る人々に合流する。改札口を出ると流れは二手にわかれ、僕も日常に流れていく。


 よろしくお願いしまぁすなどと言いながら若い男女が何かのビラを配っている。若い女性がカフェメニューのチケットを僕に差し出してきた。僕はそれをきちんと受けとった。


 むかし、僕はここでビラ配りをしていたことがあった。僕の悪友がいつもどこからか持ってくるアルバイトだった。僕にとっては得体の知れないビラだった。配るビラの内容によっては若い女に配れとかおっちゃんに配れとかあいつは言った。かつての自分とあいつを思い出すと、今も誰かが配るビラを受けとらずにはいられなかった。僕たちはある劇団で舞台俳優を目指す、名も無い研究生だった。貧乏だった僕たちはひたすら配り、入ったバイト代で遊んでいた。


 二十三歳のときにそのビラ配りの生活は終わった。その次の年には僕は役者として認められ、それから僕の生活は変わった。


 それから五年が経つが、この駅の風景はあまり変わっていない。この夏も、冬も、来年の春も、ずっと変わらないだろう。そう思うのは、自分の心が変わらないからだと僕はどこかでわかってもいる。そしてその感じは年々少しずつ膨んでいる。まるで僕に気づかれないように僕をそっと圧迫して、ゆっくりと窒息させようとしているかのように。僕は腕時計に目をやるが、僕の心は八月三十一日の午前九時半じゃない。心は違うところにあるような気がしているが、僕はどこかにいる自分を捕まえられない。悲しいのは、こうして自分の状態にうっすら気づいていながらも、何も問題なく過ごしていることだ。大切な妻もいるし、穏やかに、幸せに。


 僕は定期の入ったスマホをポケットにしまうと足早になった。十メートルくらい向こうにもビラ配りをしている青年がいる。僕はさりげなくそちらの方向に流れていった。だんだんと青年に近づいていく。差し出された白い手から、ビラを受け取る。


 そのとき、青年の手が僕の手にぶつかった。僕は振り返った。Tシャツにジーンズ、目深に被った野球帽という出立ちのビラ配りの青年は、地面に置いてあった空の段ボール箱を持つとそばの階段を降りて行き、通路から消えた。僕のが最後の一枚だったようだ。


十花とおか―」

 思わず名前を呼んだ。十花に似ていた。僕の悪友、十花直人とおかなおひとに。でもそんなはずはない。十花は、五年前に死んでいるのだ。


 僕は向き直り、また歩き出した。僕は笑った。そして呟いた。
「俺はそんなミスはしないんだよね」
 十花の口癖だった。十花は人の手にぶつかるようながさつな渡し方も、受け取るのを躊躇させる渡し方もしないのだと、よく偉そうに言っていた。一体なんだよそれ。こんな大して金にならない仕事で、そんなテクニック磨くかよ。でも、おまえは得意になってたよな。

 ビラに目をやるとこう書いてあった。
―ジュエリー店 「エピソード」 OPEN あなただけのエピソードがジュエリーになります。

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