【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❶
電車のドアが開くたびに、なまぬるい風が滑り込んできた。風は音もなく車両内を舐めるように流れ込み、出口を探して迷っては消えた。まだ午前中だったが、空はうっすらと灰色を帯びて暗くなってきている。僕はひと駅ごとに開く電車の扉から少しだけ顔を出し、まだ穏やかな外気を肌で確認していた。
電車を降りると無口に階段を上る人々に合流する。改札口を出ると川が決壊したかのように人々が街へ流れていく。僕も液体のように道の端に沿って流れていくことになるのだが、いつもその前にやることがあった。
よろしくお願いしまぁすなどと言いながら若い男女がポケットティッシュを配っている。若い女性の方がフィットネスクラブの名前が入ったティッシュを僕に差し出してきた。僕はそれをきちんと受け取った。入会金0円キャンペーン。9月30日まで。もちろんこのフィットネスクラブに入りたいわけではない。
むかし、僕もここでビラ配りをしていたことがあった。僕の悪友がいつもどこからか持ってくるアルバイトだった。僕にとっては得体の知れないビラだった。配るビラの内容によっては若い女に配れとかおっちゃんに配れとかあいつは言った。かつての自分とあいつを思い出すと、今も誰かが配るビラを受け取らずにはいられなかった。僕たちはある劇団で舞台俳優を目指す、名も無い研究生だった。貧乏だった僕たちはひたすら配り、入ったバイト代で遊んでいた。
二十三歳のときにそのビラ配りの生活は終わった。その次の年には僕は役者として認められ、それから僕の生活は変わった。
それから五年が経つが、この駅の風景はあまり変わっていない。この夏も、冬も、来年の春も、ずっと変わらないだろう。そう思うのは、自分の心が変わらないからだと僕はどこかでわかってもいる。そしてその感じは年々少しずつ膨らんでいる。まるで僕に気づかれないように僕をそっと圧迫して、ゆっくりと窒息させようとしているかのように。僕は腕時計に目をやるが、僕の心は八月三十一日の午前八時三十四分にはいないと感じる。心は違うところにあるような気がしているが、僕はどこかにいる自分を捕まえられない。悲しいのは、こうして自分の状態にうっすら気づいていながらも、何も問題なく過ごしていることだ。大切な妻もいるし、穏やかに、幸せに。
僕は定期の入ったスマホをポケットにしまうと足早になった。十メートルくらい向こうにもビラ配りをしている青年がいる。僕はさりげなくそちらの方向に流れていった。だんだんと青年に近づいていく。差し出された白い手から、ビラを受け取る。
そのとき、青年の手が僕の手にぶつかった。僕は振り返った。Tシャツにジーンズ、目深に被った野球帽という出立ちのビラ配りの青年は、地面に置いてあった空の段ボール箱を持つとそばの階段を降りていき、通路から消えた。僕のが最後の一枚だったようだ。
「十花―」
思わず名前を呼んだ。十花に似ていた。僕の悪友、十花直人に。まあそんなはずはないのだ。十花は、五年前に死んでいるのだから。
僕は向き直り、また歩き出した。僕は笑った。そして呟いた。
「俺はそんなミスしないんだよね」
十花の口癖だった。十花は人の手にぶつかるようなタイミングの悪い渡し方も、受け取るのを躊躇させる渡し方もしないのだと、よく偉そうに言っていた。一体なんだよそれ。この大して金にならない仕事で、そんなテクニック磨くかよ。でも、おまえは得意になってたよな。
ビラに目をやるとこう書いてあった。
―ジュエリー店 「エピソード」 OPEN あなただけのエピソードがジュエリーになります。
今どき、ポケットティッシュすら付いていない、ただの一枚のビラだった。
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