見出し画像

【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❷

 嵐はその日の午後にやってきた。台風がこの地域を通るという予報が確実になると、稽古は途中で打ち切られ団員たちは帰っていった。僕は稽古場に残って練習していることにした。僕は次の公演でも主役だったし、それにこうしてひとりで踊りの練習をするのが好きだった。

 僕は音楽をかけずにバレエのバーレッスンからはじめた。上半身を引き上げ、身体の求心力を保ちながら腕や脚をかぎりなく外に向かって伸ばしていく。今日目覚めた身体に言い聞かせ、馴染むまで、音楽をかけない。そして曲をかけたら僕は身体にもう何も命令しない。一気に身体を解き放つだけだ。僕は踊ることが好きだ。踊っているときだけは頭のなかを空っぽにできる。僕は誰でもない、ただの音楽になれるのだから。


 ひとしきり踊ったあと、僕は稽古場の真ん中に大の字で寝転がり目を瞑っていた。これはヨガでは「死体のポーズ」というらしい。身体のメンテナンスのために、たまに団員たちとレッスンを受けることがある。いくつものポーズに集中したあと全身を脱力させ、全てから開放されるヨガの最後のポーズ。これに似ていて無心に踊ったあとも身体は安らかだ。これが死体だというのなら、とても静かで幸福だ。けれどこの世に存在した死体の全てが安らかだったのか。十花とおか、お前はすべてから開放されたというのか。

 ガチャっとドアの開く音が聞こえる。足音が僕に近づいてくる。男性、長身、身体も大きい。僕はこの足音をよく知っている。足音は、僕の胴体あたりで止まった。
「まだやっていくのか?」
「もう少しだけいいですか?」
 僕は死体になったまま言った。
「もう帰らないとまずいぞ」
「わかりました。あと30分で出ます」
「日下部」
 僕は目を開けた。今はこの低くてゆっくりした声を聴きたくないような気がした。でも安心を感じている自分もいた。
「来週も練習に来いよ。待ってるからな」
 この男はいつからか僕に当たり前の言葉をかけるようになった。来週も来いよ、待ってるからな、と。幼い子どもにでも言うように、優しく。来週ここに練習に来ることは当たり前なのに。僕はその顔を見た。ほどよく日に焼けた肌に短く顎髭を生やしている。彫りの深い端正な顔立ちだが、鼻が顔の中心線からわずか左にずれている。僕はこの男の目を見ると、いつも眉間に入った力が緩むのを感じる。
「じゃあ、戸締りよろしくな」
 そう言って男は部屋を出て行った。僕はまた目を閉じた。 

 外の強い風と土砂降りの雨が窓を叩きつける音が聞こえる。こんな音を聞くと風や雨で安いアパートの窓がガタガタ揺れるのを十花が神経質に嫌っていたのを思い出す。こんな日は、決まってあいつは不機嫌だった。

 僕は立ち上がり、窓のそばの壁のほうに行った。そこに一枚の板が立てかけてある。板は二つに折り畳めるように出来ているが、一メートル四方の大きさに広げられている。そこには十花との思い出の写真がたくさん飾られている。そのそばの台には一足のダンスシューズが置いてある。十花のものだ。つまりこれは、僕ら団員にとっての十花の祭壇なのだ。


 十花は僕が二十歳の時に僕の所属する劇団に入ってきた。十花は僕と同い年だった。十花には家族がいなかった。理由を聞いたことはない。児童養護施設で育ち、高校卒業後は製紙工場に就職して二年間働いたらしい。そして突然舞台やミュージカルを目指し、ここに来た。馬鹿なあいつは歌なんて毎日歌ってるよと言っていたが、声楽を学んだことはなかった。ダンス歴は工員時代の約二年、先輩に習ったと言っていた。工場の最寄りの駅の向かい側に、とある小さなガラス張りの会社があった。夜になるとその建物は、駅前の光景を鏡写しにしていた。そこに毎晩のように自分の姿を映してダンスの練習をしている青年がいた。十花は青年のダンスにだんだんと興味を惹かれ、あるとき青年に話しかけた。それが「先輩」だったとのことだ。
 先輩は仕事をしながらダンサーをしていたらしい。親切なことに彼は駅前で十花に個人レッスンをしてくれた。やがてプロになるためにアメリカへ行ったらしい。それが十花との別れになった。十花からその話を聞いたときに、先輩の名前をしっかりとメモしておけばよかった。今では僕と同業者かもしれない。そして十花を知る数少ない人物だ。会って聞いてみたい。その頃の十花がどんなだったのかを。
 
 十花が先輩と別れた頃、僕の劇団で経験不問のオーディションがあった。十花はそのオーディションでたったひとつの武器だった先輩直伝のタップダンスを披露した。あいにくこの劇団ではタップダンスはなく、バレエを基礎としたダンスが中心だった。十花はこのことを承知で来ていた。十花はタップシューズだけでなく、自作のタップボードまでオーディションに持ってきていた。笑う人もいるだろうが、それを面白がる人間も存在する。

 当時から僕に目をかけてくれた演出家がいた。常盤ときわという男だった。十花という原石を拾ったのはおそらく彼だと思う。彼は面白いものや型破りなものが好きだった。常盤は「ここはタップはやってないよ」と彼に告げたが、それでも十花は動じなかったらしい。常盤にとっても十花の何かがおもしろかったのだと思う。十花には先輩のタップダンスだけでなく、十花だけの武器があったようだ。
 
 こうして十花が入団してからというもの、バレエのレッスンの時間はいつも僕の隣だと常盤に言い渡され、バレエ経験十五年の僕は十花の面倒を見るようになった。
 
 実際十花が来てからの生活は楽しかった。十花はすぐにバレエを好きになった。素直で飲み込みは早かったが、やはり身体はそう簡単にはあやつれず、アレグロの曲の練習中に振り付けを間違えては照れかくしにタップのステップを踊った。それが滑稽で、それでいてコメディのようにスムーズだったので稽古場の笑いを誘った。十花が皆に好かれるのに時間はかからなかった。十花は若い女性がよくやるような、話のあいまに優しげに笑う癖を持っていた。僕は不思議とその仕草に惹きつけられ、そしてどこかで儚さも感じていた。

 十花はひとり遅くまで練習したり筋力トレーニングをしたりと、なかなかの根性も見せた。十花は生まれ持って手脚や指が細長く美しかった。そこに筋力と踊りの技術がついてくると様になった。

 僕は十花を忘れることができない。あまりにも近くにいたから。朝も、昼も、夜も、十花と、そしてときには十花の恋人だった団員のひとり、美智みちと三人で過ごした。稽古やアルバイトがないときは、僕か十花か美智のアパートで過ごした。三人でいることが僕たちの居場所そのものだった。

 

 携帯電話が鳴った。僕は起き上がり、ステレオのそばに置いてあったスマホを手に取った。妻からだった。
「もしもし」
あゆむ、今どこにいるの?」
「まだスタジオにいるよ。練習中止になってみんなは帰ったけど」
「またひとりで練習してたのね」
 妻は見透かしているようにクスッと笑った。
「ひどい台風だね、僕ももう帰るよ」
「電車止まっちゃったわよ」
「えっ、」
「やっぱり知らなかったのね。雨宿りしてきて」
「ああ、でも今日は―」
「いいの。気にしないで。危ないから、帰ってきちゃだめ」
「美智―、」
 僕は妻の名前を呼んだ。
「ごめんね」
「ううん、明日にしよう。じゃあ、ほんとに気をつけてね」

 僕たちは結婚して一年になる。美智は二ヶ月前から劇団を休んでいる。妊娠しているのだ。
 そして今日が僕たちの結婚記念日だった。


 僕は壁の方に振り返った。十花や僕や美智や団員たちの笑顔で埋め尽くされたボードともう一度向かい合う。そしてこっそりと少しだけ、笑いかける。あいつが置いていった、タップボードとシューズに。これが僕がひとり残って練習する日の、最後の儀式だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?