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忘却の栞に祈りを込めて

震災のトラウマと流行り病について。
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手が食べ物を探し続ける。止まらない。普段は間食でなんて食べることのない納豆や豆腐、冷凍食品まで漁っている自分に気付いて、首を傾げてルナルナを開く。予定日は、予想していたよりずっとずっと先だった。

止まらない食欲と異常な量の食料の買い込み。どちらが先かは分からないが、普段のわたしと違うことだけは確かだった。

焼き鳥が食べたい。
どうしても抑えられない衝動に負け、知っている焼き鳥屋に片っ端から電話をかけた。

鳴り続けるコール。

「自粛中です」の文句。

呆然とした。
ふと振り向くと、いつもバスを待つ間風除けのためにお世話になっていたデパートは、シャッターが下りている。
そういえば、地下街もローソンとマツキヨ以外閉まっていた。

ふいに泣きそうになっている自分に気付き、慌てて目線を逸らした。

そこで悟った。

わたしは不安なのだ、と。


「罹患率はインフルエンザより低いんだよ」

「大袈裟」

「気をつけはするけど。仕事してる以上は無駄だよ」

うんざりとそう母に告げてからもうゆうに2ヶ月以上経つ。

すぐに収束するとばかり思っていたのに、「4月そっちに引っ越そうかな」も、「連休に帰ったら会おうね」も、数ヶ月越しで楽しみにしていた予定はことごとく立ち消えた。

マスクがなくなり、トイレットペーパーがなくなり、それでも直接的な被害はなかったためどこか他人事だった。
化粧の楽さから年中マスクをしていたので、マスクがないのは面倒だな、とだけ思っていた。

土日にデパートや地下街にシャッターが下り始めた。
あれよあれよと非常事態宣言が出され、個人情報の取り扱いが多く業種的に不可能だろうと踏んでいた我が社も在宅ワークが決まった。

食料を買い出しにディスカウントスーパーに行くと、相変わらず人がごった返していた。
普段より在庫の減った冷凍食品とカップ麺。
わたしが好んで選ぶ四つ入りの小さなヨーグルトは、ひっくり返った一つを除いて全て売れているようだった。

事務所の全員が車通勤をしていた前職のころにはまったく抱かなかった不安が生まれる。
今、手狭なうちの事務所には50人の職員がいて、ほぼ100パーセントが公共交通機関での通勤だ。会社で仕事をするだけで、毎日不特定多数の人間が持つウイルスとこんにちはだ。

友達と会えなくなった。
車通勤の彼らが持つべきでないウイルスをわたしが持っている可能性が高いからだった。

閉鎖されてしまった世の中は、闇と混沌に包まれている。

既視感がある。以前も経験した。

4年前の熊本地震だ。


友達へのLINEを返そうと、風呂場の前で携帯を触っていたとき、世界が揺れた。

4月14日、21時26分。余震。

お風呂に入る勇気はなく、すぐに部屋着のワンピースを着た。
驚きはしたけれど、まったくの無事だった。

「せめて大事なものだけはまとめときなよ」

安否確認をくれたみんなにそう言われて、しぶしぶ大きめのポーチに印鑑と通帳、年金手帳、そして持ち運べる大きさの、なくしたくない思い出だけをいくつか詰めた。

「バイト出て来れるならおいでよ。一人でいるのこわいだろ?お客さんも少ないだろうし、みんなでご飯食べよう」

店長に言われて、それもそうだと出勤した。

一階と二階を繋ぐリフトは壊れていた。
二階にお客さまを通すほど人は来ないだろう、と誰もが見込んだが、古い街だから、周りの飲食店は建物やなんかをやられたようで、軒並みシャッターが閉まっていた。
その皺寄せで、昨日の地震など信じられないくらい忙しかった。みんな元気に疲れていた。

自分の中で処理し終えたものと世界に残る爪痕があまりにも違いすぎて、その狭間でなんとなく消化できずにいた。

まかないを食べに来ただけなのに。文句たらたらでカレーを食べた。カレーかよ、みんなでそう言いつつも、疲れた体と心に具沢山のカレーは染み渡った。

全員で店を出る。日付は変わっていた。
帰り着いて、普段はまったく付けもしないテレビをつけた。

そのときだった。

4月16日、午前1時25分。

本震。

震度7。

鳴り響く携帯の警報。

昨日よりも長い。
生まれて初めて本気で、死ぬかも知れない、と思った。

ベッドは下に潜り込める構造ではなく、咄嗟にベッドに飛び乗った。天井が近くなっただけだ。不安だけが大きくなった。

最後に目に移ったのは、天井に吊るされたペンダントライトが踊りに踊り、派手な音を立てて天井と何度もぶつかるところ。

それを境に、わたしの視界から明かりと呼べるものが全て奪われた。

あれほど深い闇をわたしは知らない。
ライトが壊れたのかと思ったが、一斉に停電したため、もちろん窓の外を見やっても全く明かりはない。
黒い絵の具が世界に零されたようだった。
一瞬自分の目を疑って携帯の電源を入れたらしっかりと明かりが見えたことで、思考が状況について来た。

このままじゃ、死ぬ。

長い揺れの中、真っ暗闇でそれだけ悟った。
ポーチとタオルケットだけが入ったリュックを背負い、眼鏡をかけ、携帯を掴んで立ち上がった。

揺れは止まらない。
真っ暗で何も見えない。なぜか床が水浸しで、靴下が濡れた。

なんとか部屋から飛び出て階段を下りると、既に出て来ていたらしいご近所さんたちが、不安そうな顔でじっと空を見ていた。

倣うようにわたしも真っ暗な空を仰いだ。
ゆっくりと揺れが止む中で、昨日友達からの助言を鬱陶しがりつつ、やかんに水を入れて台所に置いていたことを思い出した。

せっかく確保してた水、溢しちゃったんだな。
どこか他人事のように思った。

アパートもうちの周りの民家も倒壊こそ免れたようだったが、ご近所さんのブロックたちは、見るも無残に塀としての役割を放棄していた。


近くの大学が避難所だった。
体育館に入れるのはご老人、妊婦、子供連れのみで、わたしたちは広いグラウンドに敷かれたブルーシートで寝るしかなかった。

4月とはいえ、夜中は冷え込む。
空いているブルーシートを探していると、通路脇でパジャマのおばあちゃんが小さく縮こまって震えていた。着の身着のまま出て来たようで、荷物もない。
そっとタオルケットを差し出すと、おばあちゃんは震える声でいいの、とだけ聞いた。
わたしも返さなくていいです、とだけ答えてすぐに立ち去った。

その後すぐに座り込んだブルーシートは地面より冷たくて、わたしは少しだけタオルケットを渡してしまったことを後悔した。
冷え切った硬い地面に横になる。それだけで身体中が痛い。地鳴りも近くなった。
揺れがあると、何百もの携帯からほぼ同時に、絶妙に少しずつずれてアラームが鳴る。極度の緊張でただでさえ眠れやしなかったが、数時間、いや数分おきの爆音で、眠ろうという気にもなれなかった。

そこで4時間ほど過ごし、わたしはアパートに帰ることを決めた。自暴自棄だった。アパートが倒れたらそのとき考えよう、せめて自分の部屋で死にたい、そう思った。

朝5時半。まだ辺りは真っ暗だった。
ドアノブを捻る。鍵もかけずに飛び出したので、部屋はすんなりと家主を出迎えた。

が、わたしが一歩も動けなかった。

真っ暗な部屋は、何かを呑み込もうとしているようだった。

動悸が激しくなる。息ができなくなる。

部屋には入れなかった。

服の胸元をぎゅうと握り、とぼとぼとまたアパートの階段を下りる。
電柱からも建物からも遠い場所を求めて、近くの駐車場にたどり着いた。タイヤ止めの石に腰掛けて、どうしようもなく泣きそうなのを堪えて母に電話した。

「もしもし」

「お母さん。わたし、避難所からおうちに帰ることにした」

「そう。大丈夫?」

「うん」

「うん。また起きたら電話するから」

うん、とだけ、消え入りそうな声で返事をして電話を切った。
当事者以外、世間はこんなもんだ。

あちこちで警報が鳴っているのが聞こえる。
熊本にいる友人たちとは、それどころではないので安否確認すら明け方だった。相手の電気の有無が分からない以上、貴重な電力を奪い兼ねないので自分からは連絡もできない。

震える携帯を握りしめて、世界に一人だけになってしまったような気がして泣いた。


数時間後、少し明るくなってからわたしは再度部屋に戻った。

まずわたしを出迎えたのは水浸しの床だった。床がめくれ上がったり、階下に水が漏れたりするとよくないので、すぐに雑巾で拭いた。
雑巾を洗おうと蛇口を捻ってみたら水が出なかった。
ぱちぱちと照明のスイッチを扱うと電気はついたのでほっとした。
震災の時に一番多いのはガスによる火災だと聞いていたのでひやひやしたけれど、ガスも試してみた。つかなかった。

電気以外のライフラインが途絶えた。

続く余震に、携帯のアラートはいつしか震度3や4くらいでは鳴らなくなっていった。
見もしないテレビをつけ、余震のたびにTwitterに震度予想を書き込む。テレビの速報か気象庁のツイートで答え合わせをする。日がなそうして過ごした。朝も昼も夜も眠れなかった。

電気が消せなくなった。
明け方、全てを飲み込むような暗い部屋を見て動悸がしてから、嫌な予感がしていた。暗闇がこわい。地鳴りもこわい。揺れてなくても揺れたような気がして冷や汗が出る。

「ルイちゃんまだ熊本なの。わたし両親が迎えに来てくれて長崎に避難したの、一緒に連れて帰ればよかった」

友達から泣きながら電話が来た。

「関西まで出てこれるんならな。面倒見たんねんけどな」

地震速報のすぐあと電話をくれた遠くの元彼は、それからも何度か連絡をくれた。
余談だけれど、余震の直後彼と電話していたせいで家族友達誰からの電話も繋がらず、電話を切ってLINEを開くとかなりの熱量のLINEが多く届いていた。もしかして的な。あれは少し笑えた。

そういった連絡をいくつももらった。
たくさんの安否確認を受け取るにつけ、わたしはきっと死ぬんだ、という絶望にも似た諦めばかりが膨らんだ。

作り置きを少しずつチンして食べた。
熊本はどこの家庭も水道水を飲む。全面的に頼りにしていた水道がだめになったことは、ほぼどこの家庭でも飲み水がないことを意味した。わたしにとっても、たまたま買ってあった500ミリのペットボトルが全てだった。

ふと思い立って、揺れ続ける部屋の中、トーク履歴に名前のある友達に片っ端から電話をかけた。
わたしには猶予がない。一人一人と長話している時間はない。
一人5分。いや、3分。
声を聞くためだけの電話。訪れるであろう最後の前に、みんなと少しだけ話がしたかった。
誰もが笑うかも知れないが、わたしはこの時本当に死ぬと思っていた。


4月17日、朝7時。
近所のコンビニが開くらしい、とTwitterから情報を得た。
7時5分にコンビニに着いたが、食料は全く棚に並んでいなかった。

わたしの前に並んだ男性が、2リットルの水を最後の4本全て籠に入れた。誰も何も言わない。彼の家には家族がいて、必死なのかも知れない。わたしもそれしか考えられなかった。
残っていたのは2リットルのお茶が数本。ありがたく一本だけ買うことにした。

レジに立つおばさんは、疲れた顔をしていた。
一帯で水道が止まっているはずなので、お風呂にも入れていないはずだった。ぼろぼろだった。
それでも、こんな非常事態なのに、彼女たちはいつもと同じ文句を発するだけだった。
「ーー円になります」
涙腺が緩んだ。深々と礼をした。
こんなときにまでありがとうございます。生きてください。そんなことを思わず口にした。わたしだけではなく、レジに並ぶ多くの人が、きちんと顔を上げていた。


徒歩20分ほどのところにいるバイトの後輩が水道水を2リットルのペットボトルでくれた。

彼の家はガスが止まっているのみで、そのまた少し向こうに住む彼の友人宅はガスが通っているらしく、なんとか助け合っているらしかった。

初めて無精髭を生やした彼を見たし、お風呂にも入れず顔を洗えないわたしの悲惨な顔も初めて見せた。

お礼に、家にあっても食べられないカップ麺を全て渡すと、彼は礼を言ってまた自転車で去って行った。

人間なんとか適応するものだ。
つくづく不思議な感覚だった。

15日の昼以降2日か3日で多く見積もっても4時間ほどしか寝ていなかった。久々の太陽光には目の前がちかちかとしたが、眠いという感覚は全くなかった。
水がないという絶対的危機下で、全く喉が乾かない。トイレには結局3日ほどで1度しか行っていない。


4月17日深夜。
県外の両親が状況を把握したらしく、迎えに来てくれた。

わたし含め、実家が県外にあって家族が動ける人間はラッキーだった。なんせ、家が熊本にある人は、家具が倒れ床がガラスの破片だらけでもそこを離れることが出来ずにいたから。

持ってきてもらった十数リットルの水道水でトイレを流し、溜まった食器を洗った。

帰りしな、両親に頼んで買ってきてもらったインスタントご飯や味噌汁を持って友達の実家を訪ねた。
たった数日ぶりでしかない友達の顔に、なぜだか鼻がつんとした。お睡眠も食事もろくに取れずシャワーすら浴びれていないぼろぼろ具合を涙声で笑い合って、どちらからともなく抱き合った。

生きててよかった。

ぽろりと溢したのはどちらが先だったのか、もう思い出せない。


実家に戻ってからは、念願のシャワーを浴び、数日ぶりにぐっすり眠った。
熊本にいる友人やバイト先の人々を思い出すと、一人ぬくぬくとした日々を過ごしていることが申し訳なくて、何度も一人で泣いた。
不安だったのか、一人で寝ていたはずが、目が覚めたら母や妹のベッドにいたこともあった。

変化として顕著だったのは二つ。
暗いこと狭いところが怖いこと、トラックの音が怖いこと。

なんともなしに電気を消す気にならず、実家に帰ってからも明かりを付けたまま寝ていた。
数日経って、友達と電話をしながらうっかり電気を消してしまった。外灯もあって真っ暗闇なわけでもないのに過呼吸を起こしてすぐに電気をつけた。

それは今でも少し残っていて、車高の低い車に乗ると動機がするし、心身どちらかがくたびれていると夜の運転が怖かったりする。
暗闇だけでなく狭いところも得意じゃなくなってしまっている。真っ暗闇では、空間感覚も失われてある種の圧迫感のようなものを覚えたせいだろうか。呑み込まれそうな真っ暗な部屋を見たからだろうか。
今の生活では洗車機と夜の山道運転がマックスこわい。

トラックの走行音は、実は地鳴りとものすごく似ている。
実家はまれに隣をトラックが走ったりしていたのだが、そのたびにひゅっと息が吸えなくなって、また揺れるのではないかと全神経が緊張する。窓からトラックの姿を確認したり、十分な時間が経ったりして確実に違うと言い聞かせられるようになって初めて震える息を吐く。

もう地鳴りの音なんて覚えていない。
前職ではそれこそ毎日トラックが行き来していたけれど、それに怯えることはなかった。少なくともわたしは、これに関しての後遺症は残っていない。人間は忘れてくれる生き物だ。


世間が混沌としていて、自粛が叫ばれて、人間が狂いそうで余裕がない。

なぜか今、あのときの不安が蘇る。

「熊本地震を思い出す」と例の差し入れをした友人ーー今も熊本にいるーーに泣き言を漏らすと、彼女も驚きながら同調してくれた。全く同じこと感じてたんだ、と。
だからこそ真っ先に熊本で買い占めも起こったんだろうなと、たとえ不謹慎だろうと納得も理解もしている。みんな同じ気持ちなんだな、なんて逆に勇気づけられさえする。

当時のことは思い出さないようにしていたのかほぼ忘れていたけれど、こうして形に起こすことで少しずつ色んなことを思い出した。

友達の友達までわたしを心配してくれて、何かしようとしてくれていたとか。

友達同僚と食料や水を届け合ったとか。

ご近所さんとはそれから立ち話をするようになったとか。

毎日何時間も睡眠時間さえ削って電話を繋げてくれていた友人。

過呼吸を起こすわたしに寄り添ってくれた愛犬。

いい話にするつもりはまったくない。
毎日泣きながら死ぬことばかり考えていたし、実際同僚の友達には不幸なことがあっていたり、上司の実家が倒壊していたりしている。経験しなくてよかったのなら絶対したくないし誰にもして欲しくはない。

食器やガラスの破片がひどく、被災直後は家の中でも靴を履いていた友人が、コロナ自粛で家にいることで最近やっと惨状だった自室を模様替えしたらしい。

同僚の母が、やっと仮設住宅から引っ越したらしい。

熊本城の修理が着々と進んでいる。

今でもそんなニュースが飛び込んでくるとほっとする。わたしたちは少しずつ前を向けているのかな、って。


自粛自粛の毎日に発狂しそうだ。

ロイホのパフェが死ぬほど大好きなのに、ロイホはテイクアウトのみの営業だし。
夏に向けてUVカットのストールが欲しいと思ってもメルカリでしか買えないし。
可愛い洋服をもらっても着る機会もないし。
コーヒーテーブルの上にパソコンを置いてむりやり在宅ワークをしているおかげで体バッキバキだし。

今回に関してわたしはまだ当事者としての意識が薄いので、熊本地震と比較してどうこう言うつもりもない。

熊本地震では得た縁も失った縁も大きかった。
ウイルスがわたしに、わたしの周りに何をもたらすかは分からないけれど、生きてさえいれば、きっとこうしてこの日々を思い返す日も来るし、何かを得たとか思ったりするのかなあ、なんて思ったりはする。

そのときに後悔だけは残したくない。

わたしにもわたしの周りにもわたしの周りの周りにも生きててほしい。祈ることしかできないけれど。
だからみなさんよく食べてよく眠って、よく笑って。ご自愛を。

さまざまなトラウマが蘇る日々だけど、一人じゃないしね。助け合っていきたい。

暇潰しにもならないようなnoteだけど、そっと、祈り。


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