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活字は自身に勝るか

今日はまとまりもなく、「note書き初め」がてら少々自分のことを書こうと思う。

昔から活字が好きだ。
絵本に始まり、それが小説になり、Web作品になったり、時には漫画になったりもしたが、好きなことと言えばいつだって何かを読むことだった。

初めて物語を書いたのは、物心がついていたかも怪しい、幼稚園生のころだった。
母が買ってくれた色とりどりの折り紙の白地に、彼らの生まれてきた用途も無視して覚えたての平仮名を書き連ねた。
ちなみに、どこかの国のお姫様がお母さんと喧嘩をして家出する話で、未完結だ。このころから飽き性だったらしい。

それからは、ブログを書いたり、誰かのキャラクターをお借りして小説を書いたりを続けた。

高校生まで続いたその習慣は、大学生になって一人暮らしを始め、愛用していたデスクトップパソコンが、薄く何も持たないノートパソコンになったことで途絶えた。
そして、友人に勧められるままにnoteを始め、今に至る。

大学では英文学を学んだ。
それは決して、英語が好きだからという理由だけではない。わたしは言語そのものを愛していて、その中でもわたしの心を揺さぶるほど狂わしく美しいのは日本語だとさえ思っている。

日本語が最も美しく感じるのは、おそらくわたしが日本語を使用しているからに違いない。
世界には美しい言葉が、単語が、言い回しが溢れているはずで、それを知らずに生きていくのはもったいないなと感じた。

飽き性なのでどの言語でももう何かを読むことはできなくなったけれど、わたしの語学に対する熱意を格好いい話にしようとするとそんな感じ。

だが、そんなわたしでも時に、音によって伝わるものに活字は敵わないなと感じて、非常に悔しい思いをすることがある。

たとえば、音楽。

きっとわたしが小説のワンフレーズに震えるほど心を打たれるように、押さえられたコード、ピアノの和音に芸術を感じる人間はもちろんいるだろう。事実、わたしのような疎い人間でさえ、久石譲さんや坂本龍一さんのことは崇拝していて、いつか誰かの結婚式で弾きこなせるような人間になりたいと思っている。

だが、言語世界にどっぷり浸かったわたしには、やはり言語が強い。
音楽による好き好きはあれど、やはりふと聞こえたフレーズに惹かれてグーグル検索に頼ることが圧倒的に多い。

先日、友人の部屋でかかるOfficial髭男dismさんの歌を聞いた。
いくつかのフレーズに惹かれ、爽やかな曲調も気に入って、家に帰っていくつか歌詞検索をし、音楽を聴いた。

pretender。有名な曲だ。
わたしはそれを聴きながら、気付いたら涙を流していた。

「至って純な心で、叶った恋を抱きしめて、好きだとか無責任に言えたらいいな」?

「その髪に触れただけで痛いや、いやでも、甘いな」?
グッバイ。

なんだこれ、と。

個人的な解釈になるが、わたしはこの曲を、勝手に不倫の曲だと思っている。浮気でないのは、不倫の方が切実で、切ないと思っているから。もちろん美化100%。創作上の話です。
奥様がいながら他の女性を好きになってしまって、でももちろん手放さなければならない、そんな男性の葛藤による感情が描かれているのかな、と思っている。

それを、こんな曲調で、こんな歌詞で、表すことができるなんて。

歌詞と小説はもちろん違う。
それは重々分かった上で、わたしにはこんな文章は書けない、と思ったのだ。

脱帽。なんとも悔しい。

そしてたとえば、誰かとの会話。

10通のLINEの往復より、10分の通話の方が相手の性格を、考えていることを知れることもある。
個人差はたしかにあるし、LINEからだって沢山の気遣いも知識も読み取れるけど、何か言いかけて言葉が被った際の優しい「ん?」が好きなわたしとしては、電話はかなり心地よい。

誰かの存在を感じられるのもやはり電話かな、と思う。聞こえる息遣いも、衣擦れの音も、LINEにはない生活感だ。

最近、寂しさに負けてとうとう寝落ち通話という設定のASMRを導入した。

YouTubeにはたくさんのASMRerさんがいる。まだ全然一掴みも聞けていないのだけれど、こちらから男性に電話をかけた設定でのASMRが寝落ち通話が好きなわたしには大ヒット。元々寝付きがいいのに今はお休み2分。毎晩前日の続きから付けても全然最後までたどり着けない。

誰か、を感じながら目を閉じて眠りにつけるのはとっても幸せだ。

赤ちゃんが眠くて泣くのは、意識がなくなることに慣れていなくて、自分が消えてなくなってしまう感覚が怖いと感じるからなのだと聞いたことがあるが、まさにそれである。
眠るという行為は良くも悪くも世界と自分を切り離す、孤独なものだ。

そんな中で、相手がいなくても寂しさが根本からなくなるこの感じ。確かに活字では厳しい。寝るときは目をつむるわけですし。

逆に言うと一人で100楽しめるのが活字のいいところではあるのだろうけどね。そこは、寂しがりやなりに自分の寂しさとどう向き合うかなんだろうな。

まあそうはいっても。

感動したからといってギターを始めよう!写真を撮ろう!絵を描こう!とはならないなれないし、わたしにはやっぱり書くことしかない。
それは書くのが一番簡単だからではなく、一番楽しいからだ。

楽しいと言いつつ、最近特に後味のいい話があまり書けていないままずるずると来ているけれど、いつかは読んだ人間がハッピーになれるような幸せな話が書けたらなとは思う。

どうだろう。むりなのかな、わたし自身がハッピーになるまでは。
わたしの分身でもある、わたしの文章の中の「わたし」と「僕」にだけでも、何も考えずハッピーになってほしいのだけど。

恋愛をしたことがない人間に恋愛小説が書けないのなら、SF作家は宇宙に行かなければならず、ミステリー作家は犯罪に手を染めなければならないのかという論争を巷で見かける。

わたしはそれに関しては否定的で、宇宙に行かなくてもプラネタリウムで感動したことはあるだろうし、人を殺したことなんてなくても憎い嫌い愛してるという感情はほぼ全員知っている。その感情に強弱の差があるだけだ。
しかしこと恋愛に関しては、そもそもが感情の話なので、抱いたことのない感情について言葉を書き連ねることは難しいような気がしている。

そう考えるとやはりある程度ハッピーを知らなければハッピーを創り出すことはできないのだろうか。

いずれ、わたしがハッピーでお花畑のような文章を書くことがあれば、喜ばしいことだと見守ってほしいな。

オチはないけれど、ずいぶん長くなったので本日の徒然はこの辺で。グッバイ。



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参考:pretender/Official髭男dism/藤原聡さん作詞

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