見出し画像

「大成功」な人生の教訓


やりたい仕事、趣味を超えるレベルの趣味、大学時代からの付き合いの妻、成人した子どもと孫。広く存在が知られ、すごいと思われるその存在感。

そんな「大成功」な人生を送っているように見える人生の先輩に、疲れ切った後輩は突拍子もない質問をした。
「絶望したこととかって、あるんですか?」
先輩は答える。
「そこまでは…ないかなあ。」
我々はそれをきいて、軽い絶望を、というより人間の質の違いや越えられない壁を感じずにはいられない。

そうしていると、近くにいた別の先輩が、
「絶望したことあるの?」
と後輩に尋ね返した。
たしかにそう問われれば、はい、とは言いづらい。あの出来事を絶望と表現してよいのか?そんな大層なことだったか?

先輩方の話は続く。
「臨機応変とか、優柔不断とか、そういうの大好き。なんとかなるんだよ、なんとか。」
「そうそう、なるようになるのよ。何とかなったもん!」

自分に変えられるものなんかない、ということではなく、物事は動いていくようにしか動かない。流れるようにしか流れない。無理な方向に舵はきれない。そのことを先輩方はきっと知っていて、「なんとか」してきたんだろう。それが我々には「大成功」に見えたのかもしれない。



まだ笑えない、これまでの絶望の破片はそこいらに転がっていて、時折私は踏んでしまって血を流す。いてぇいてぇとのたうち回りながら、それでもいつのまにか傷は塞がる。決してなくなることはないけど、なんとか立ち上がることはできる。そうだ、私もまた「なんとか」なっているのだ。

未だに握りしめたままの絶望もある。言葉にしてたまるか、誰かにわかってたまるか、絶対に人に渡したくないお守りのような絶望もまたここにある。だけどそれはもう希望かもしれなくて、私は自分で抱えきれないほどの絶望に救われてすらいる。



ほら、どうにかなっている。「大成功」なのだ、と今ここを肯定したい。


排水溝流れて行った、プールサイドの泥水は、きっと下水処理場で綺麗になる。「なんとか」なって、また我々を潤す。「なんとかなる」連鎖の中に、私もまたいるのだ。

この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?