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「悲哀の月」 第11話

 世間と同様に病院内の会話も、コロナ一色となっていた。誰もが不安を言葉に変え、情報を求めている。
「ねぇ、中国の病院見た。今日、テレビで流れていたけど」
 更衣室では、貴子が早速この件を話題にしている。
「見たわよ。コロナの患者が次々と運ばれてくる映像でしょ。病院の人は防護服を着て。泣いている人もいたじゃない。完全に医療が追いついていなかったわよね」
 着替えながら真子が言う。
「そうよね。もし日本もああなったらどうする。貴子は」
 そこで真子は、周囲に誰もいないことを確認した上で声を潜めた。
「どうするって、それは辞めるかってこと」
 着替えの手を止め、貴子は聞いた。ただし、その声はしっかりと潜めている。
「そう、正直、あんなことになったら私はとてもじゃないけど、やっていく自信はないもの。精神を病んでしまうわよ。絶対に辞めるわ」
 真子はキッパリ言い切った。
「そうね。私も同じだわ。さすがに死にたくないもの。コロナで感染して死んだなんてことになったら、病院側からすれば美談として称えるのかもしれないけど、こっちは冗談じゃないわよね。まだ生きたいもの」
 貴子も本音を口にする。
「そうよね。やっぱり。私達には私達の人生があるものね。そこまで捧げる必要はないものね。いくら看護師とは言え」
「うん」
 二人の意見は一致した。看護の道を志した際は人のためにと思っていたが、それはあくまで自分の身が安全に保たれていることが前提だ。身の危険が迫っている状況下であれば話は変わってくる。
「どうしたの。小声で話して。何か秘密の話でもあるの」
 と、そこに里奈が入ってきた。煙草を手にしている。仕事前に一服してきたようだ。看護師とは、ストレスの溜まる仕事だ。やることがたくさんある上に、思い通りに行かないことばかりだ。そのため、喫煙者は多い。里奈もその一人だった。当初は吸っていなかったものの、経験を重ねて行くに従って手を出すようになり量も増えている。今では最低でも二箱。多い時には三箱吸うほどのヘビースモーカーとなっている。
「いやっ、秘密の話というわけじゃないんだけどね。コロナについて話していたの」
 隠す必要はないため、貴子は正直に話した。
「そうなの。コロナはかなりまずいことになっているからね。今後はどうなるのかしらね」
 話しながらも里奈は煙草をロッカーにしまった。その後でスプレーを取り出し、煙草の匂いを消している。
「ちなみに、里奈さんは何か聞いていませんか。この病院はコロナに関してどのような対応を取るのかについて」
 真子が聞く。
「今のところは聞いていないわ。病院側も話し合っているみたいだけどね。婦長もわからないって言っていたわ」
 里奈は自分の知っている情報を伝えた。
「そうですか」
 二人は顔を見合わせた。
「まぁ、とりあえず私達は言われた通りにするしかないからね。出来ることをやっていこう。その内、病院側の方針も決まるでしょうから」
 里奈はそう言うと、一足先に更衣室から出て行った。
(困ったわね。二人も相当ナーバスになっているものね。コロナに関して)
 その胸では不安がよぎっていた。実は、二人が更衣室で話している会話は聞こえていた。あえて聞いていないふりをしていたのだ。
(早く収束してくれないと本当に困るわね。このままじゃ披露宴もピンチじゃない。キャンセルになったらお金も掛かるだろうし最悪ね)
 仕事をこなしながらも里奈の頭にも、披露宴の危機がよぎっていた。


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