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「悲哀の月」 第64話

「まさか、こんなに急変してしまうとはな。昨日までそんな兆候は一切なかったのに。可能性として何が考えられる」
 部屋に戻ると来生は話し合いを始めた。
「やはり、サイトカインストームが起こったということですかね」
「そうだよな」
 考えは同じらしく来生は頷いた。サイトカインストームとは、細胞内で起こるトラブルだ。体内にウィルスが侵入した場合、免疫細胞は感染経路を潰していき、感染した組織を死滅させる。これを、サイトカインという。コロナウィルスが肺の中に侵入した場合も、サイトカインの動きを見せる。しかし、侵入したウィルスが大量だった場合、パニックが起こってしまう。本来であれば、感染した組織を死滅させるが、パニックになったことで正常な組織まで破壊させてしまうのだ。これがサイトカインストームという現象だ。ウィルスが血液の流れに乗って複数の臓器に入り込み、サイトカインストームが起こるケースもある。
「そうなるとまずいな。肝臓にもウィルスが回っているかもしれない。大至急、数値の方を調べてくれるか」
「わかりました」
 丸田はすぐに病室へ向かった。
(まずいな)
 一人となったところで来生は青ざめていた。コロナウィルスは、肺を出ると肝臓に流れやすいと言われている。肝臓という臓器には、血管がたくさんあるためだ。ただ、肝臓だけに収まらず、腎臓や他の臓器にまで流れているケースも考えられる。こうなってしまうともう手の施しようがなくなってしまう。
「どうやら考えは当たっているみたいです。今調べてきたところ、肝臓と腎臓の数値が上がっています。通常の二倍ほどです」
 戻ってくるなり丸田が報告した。
「本当かよ。まずいな」
 来生の焦りが増す。
「えぇ、こうなってしまったと言うことは、里奈さんには基礎疾患はあったんですか。前例から行くと、サイトカインストームはそういう人にしか起きていませんから。でも、そうだとしても高齢者ですよね。若い人は前例にありませんよね」
「いいか。このウィルスに絶対はないんだ。今は誰もが手探りの状態なんだから。前例にないから起こらないなんて考えは持たないことだ。そんな考えを持っていたら、いろいろなケースを見逃してしまうぞ」
「はい、申し訳ありません」
 丸田は自分の浅はかな考えを反省した。データ重視の治療をしてきたため、どうしても過去の症例に目を向ける癖があった。コロナは未知のウィルスなのだから、過去のデータに捕らわれていれば、いつか大怪我をすることになるだろう。丸田は今の言葉により、考えを改めた。
「とりあえず、細菌を殺すステロイドを投与するとして、あとはどうするか。アビガンはもう難しいだろ」
「そうですね。思い切って、レムデシビルを投与してもいいかもしれません。この状況から行くと。あと、エクモもした方がいいと思います」
「レムデシビルか」
 来生は考え込んだ。レムデシビルとは、アビガンと共に、コロナウィルスに効果が期待できると言われている薬だ。アビガンが軽症者に効果が見られているが、レムデシビルは重症者に効果が見られることが報告されている。ただし、この薬には副作用がある。
「問題は、多臓器不全を起こさないかだよな」
 来生はその不安点を口にした。コロナウィルスに感染した人は肺炎によって他界する印象が強いが、中には多臓器不全で亡くなる人もいる。来生は何人か、このケースを見ていた。
「おそらく、このままいたら間違いなく多臓器不全で亡くなります。もう勝負を賭けるしかありませんよ」
「そうだな。なら、レムデシビルでいくか。でも、その前に家族に許可を取らないといけないからな。大至急連絡してくれるか」
「わかりました」
 丸田はすぐに電話を取りだした。四月現在、レムデシビルはまだ未承認の薬だ。使用するには、家族か本人の許可を得なければいけない。里奈は現在意識がないため、家族しか許可を得られる人はいない。丸田は相手が出るとすぐに説明していった。
(まずいな。まさか里奈さんがここまで急変するなんて。考えもしなかったよ)
 その声を聞きながら来生は準備を進めていた。


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