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「悲哀の月」 第55話

「どうだったの。里奈さんは。私が見に行った時はかなり咳き込んでいたけど」
 医局に戻ると、望が聞いてきた。彼女は一時間ほど前に、患者の様子を見て回っていた。その際、里奈の病室にも行ったが、苦しそうにしていた姿が印象に残っていたため、聞いたわけである。
「うん、昨日より少しだけ良くなったみたいよ。昨日はあんなに話せなかったから。アビガンが効いているんじゃないかしら。まぁ、苦しみながらも病院や他の患者さんのことを気遣っていたわ。申し訳ないって」
 沙耶は正面に座ると教えた。
「そうなんだ。でもまだ熱も高いし、倦怠感もあるわけだからね。しばらくはアビガンが続きそうね。もしこのまま肺炎が進んだらさすがに危険だものね」
「そうね」
 二人は不安を口にした。
「それにしても、若い人でここまで進行するって珍しいわよね。初めてじゃないかしら。ニュースでも聞いたことがないけど」
「そうね。おそらく里奈さんのことだから、我慢しちゃったんじゃないの。ギリギリまで。さすがに厳しくなったところで電話を掛けたんじゃないかしら」
「そうかもね」
 二人は納得した。里奈とは責任感が強い傍らで、頑固な一面もあった。それでいて、自分のことよりも周囲のことを優先して考えるタイプだ。その性格から推測すると、自分が入院するよりも重症患者を優先させたいという気持ちが働いたのではないかと容易に想像がつく。その結果、本人がもっとも苦しむことになってしまったのではないだろうか。里奈を知っている人であれば、誰もが考えつく答えだった。
「大丈夫よね。里奈さんならきっと治るわよね。まだ若いし、体力だってあるわけだし、何より前向きだものね。数日後にはきっと、迷惑掛けてごめんなさいって言いながら退院するはずよね」
 里奈の気持ちを思い浮かべながらも沙耶はあえて明るく言った。
「そうよ。大丈夫よ。今は苦しいだろうけど、必ず治るわよ」
 根拠はなかったものの、望も同じ事を口にする。もはや二人にとって、それだけが希望だった。
「とにかく信じよう。悪いことは考えないで。里奈さんの笑顔だけを考えて。あの容体から回復した患者さんはたくさんいたわけだし」
「そうよね。里奈さんが負けるわけないもの。コロナになんて」
 二人は言い聞かせるように言葉を交わした。
 と、その時だった。
 デスクの電話が鳴った。
 途端に二人の表情は引き締まる。
 望が電話を取ると、問い合わせだった。中高年の重症者がいるという。
 すぐにパソコンで調べてみたが、残念ながら重症者病棟は全て埋まっていた。
 望は、その結果を相手に伝えた。
「まだ続きそうね。この分で行くと」
「そうね。いい加減、落ち着いて欲しいけど」
 二人は溜息をつきながらも、自分の仕事に取り掛かっていった。


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