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「悲哀の月」 第61話

「どうやら里奈さんは落ち着いてきたようですね」
 データを見ながら丸田孝夫まるたたかおが言った。名前の通り、小太りの体型をしている。年齢はまだ若いが、医療の知識は豊富で会議となると必ず意見してくる。丸田が言うように、病院に運ばれてきた時から較べると、里奈の数値は軒並み平常値に向かっている。咳や倦怠感や発熱などの症状はまだ続いているが、数値的には改善の気配が見られ始めたため、安心していたのだ。
「そうだな。レントゲンを見ると肺の炎症範囲も少しだけど狭まっているからな。アビガンが効いているんじゃないか」
 レントゲンを見ながら来生が言う。数日前に運ばれてきた際に撮影されたレントゲンではほぼ半分が炎症していたが、今では四割ほどになっている。
「そうだと思いますね。このままアビガンを投与していけば、いい方向に行ってくれるんじゃないですか。里奈さんは、さすがにまだ若いですから。そう簡単に重症化はしないと思いますよ」
「そうだといいな。なら、今後もアビガンを続けていくとしようか。このままいけば、数日で良くなりそうだからな」
「そうですね」
 丸田は頷いた。
「まぁ、里奈さんの場合は他でも良くなる原因があるんだろうけどな」
「例の動画ですか」
 ピンと来たため丸田は言った。
「あぁ、看護師の話によると、あの動画を毎日見ているというからな。見ながら嬉しそうな顔をしているし、時折涙を流しているという話だ。だからきっと力をもらっているはずだよ」
「そうだといいですね。自分としても、出演した甲斐がありますから」
 恥ずかしそうに丸田は頭を掻いた。
「俺も同じだよ。少しでも力になれたのなら、協力して良かったと思うよ」
 来生も笑顔を見せている。雨宮から病院側に連絡が来たのは、数日前のことだった。一言でいいから、里奈に励ましのメッセージを送ってほしいというのだ。多くの人にメッセージを送ってもらい、里奈の元に届けたいのだという。そうすればきっと力になるはずだと熱く語ってきた。病院側としても、それならばと彼女と接点のある人間全員が撮影に協力した。里奈は、その動画を数時間おきに見ているというのだから、協力した二人が嬉しく思うのも無理はない。
「あんなアイデアが思い付くんですから、里奈さんは愛されているんですね。こういうことに接すると、自分も結婚したいと思いますよ」
 丸田は恥ずかしそうに言った。
「まぁ、里奈さんの場合は新婚だからな。それに、コロナは急激に悪化するし。知り合いなら心配になるだろ。おそらく、こういうケースを目にする機会は増えるんじゃないか。ここにいれば。その様子を見て結婚願望が強まるのであれば、した方がいいよ。悪いことじゃないから」
 既婚者の来生はしみじみと語った。
「えぇ、チャンスがあればそうしたいものです」
 丸田は顔を赤くして頭を掻いた。実際、結婚願望は強かった。ただ、相手がいないだけだ。
「それよりも、里奈さんはこのまま回復したとして後遺症は平気かな。そっちの方が心配なんだけど」
 そう思っていると、来生は話を戻した。
「そうですね。確かにそこは心配ですね」
 一転して丸田は真顔に変わる。コロナ患者で陰性となり退院したとしても、中には後遺症に苦しんでいる人がいる。その後遺症も人によって違う。ひどい人であれば、また感染したのかと疑うほどで社会復帰もままならないという話だ。そういった人はいつ終わるとしれないコロナとの戦いに不安になっている。
「こっちとしては、そうならないことを祈るしか出来ないからな。どうなれば後遺症が出るのか、まだわからないわけだから」
「そうですよね」
 二人の顔は複雑に変わる。コロナ病棟を受け持っているが、わかっていることなどまだほんの一握りにもすぎない。不明点の方が圧倒的に多い。そのため、二人は常に慎重な意見交換を心懸けていた。この日の話し合いも、長時間に及んでいった。


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