記者ハンと文章と俺の臭さ。

ども。
野村です。
noteでは2023年の初投稿ですね。
よろしく。

で、2023年1月16日未明のツイッターのまとめです。

あ、記者ハンというのは共同通信社発行の「記者ハンドブック」のことで、「正確な文章表記や表記の揺れの防止などを目的に編集された」冊子です。
個人的には、特に外来語は参考程度ですね。
記者ハンではサーバーと表記していますが、エンジニア目線ではサーバ。
ブラウザーはブラウザ。
コンピューターはコンピュータと書きたいです。

ツイッターからの転載

文章を書くときに漢字やひらがなは記者ハンに準じようとは思っているけど… 体言止めからの「なので」や「だから」は強調できるし、リズムが生まれるのですよ。
一時期、立川談志の落語を聞きまくった時期がありまして。
それが劇的に俺の文章力を上げたと思っています。

間、なんですよ。
転調、なんですよ。

そういうプレゼンを何十回もこなし、話し方も変わり、文章も変わっていった。

基本的に俺はプロットは一切組みません。
丁寧な喋りを文章に纏める、そんな書き方です。
それが俺の色であり、匂いであり、独自のものである。
ということです。

俺の文章のマスターピースは、本当に不謹慎なのですが、今宮純さんの追悼コラムです。
1月4日に亡くなり、ツイッターで信用のおける人が発言していたので確実な情報だ、と思いつつも公式発表があるまでは一切書きませんでした。
編集さんには、公式発表後にすぐ書くことを伝えましたが。

2020年1月10日の夜頃に公式発表があり、翌11日3時14分に初稿を入稿し、このままで12日の夕方にアップする旨の連絡が入りまして。
で、俺も何度も何度も読み返して「一箇所『その』だけを削りたい」と申し出て、最終稿を同日14時14分に送り、そのまま掲載されました。
一切の手直しも無く。

事前にあれを書こう、こう書こうというのは一切ありませんでした。
1月3日に愛猫のしろが旅立ち、1月4日には骨になって帰ってきた。
そういう状況での訃報だったので、完全に打ちのめされていました。
5日から出稼ぎ仕事があったのですが、我慢しないと涙が溢れる状態でしたし。

Web記事とは言え、朝日新聞出版さん。
文章には非常に厳しいし、一度ボツを食らったこともあります。
一度だけ、とも言えますが。
2稿3稿からの最終稿が平均でしたから。
タイトルが入稿後に変えられるのは当たり前。

経験ある人が「目に付きやすい」タイトルに修正するのだから当たり前の話。

2019年最終戦の俺のタイトルは
「若木のホンダ、至上命題は『もっと強く!』 マシン開発レースは現在進行系」
だったのが
「『F1は林業』 ホンダが見せた驚異の進化とぶち当たった壁」
に変わりましたし。

影も形もない。
F1は林業?ふざけんな!ヤフコメで叩かれた叩かれた。

俺のせいじゃないよ…

でも、読み返すとやっぱり甘いし緩い。
ピシッとしていない。素人感は拭えない。

そりゃあそうだ、大手メディアに「お金を貰って記事を書く」のは初めてだったんだから。

コロナの影響でAERAさんから離脱したけども、最後の追悼記事は読み返しても直すところがないのですよ。

当時は42歳か。
全部を出し切ったコラム。
Webを見た時には「ほら見ろ、俺が書いたんだ!」と充足感でいっぱいでした。
タイトルも俺のままだし、文章も一切無加工。
自信をもってマスターピースだと断言できるのです。
俺にしか書けない部分もあったしね。

記者ハンの話からズレたけども、俺の文章の持ち味は間と転調の臭さ。
サビ前の無音と小室哲也の「最後は半音上がる」みたいな。
プロットを組まないというのは、書いている最中に「ここに間を置きたい」とか「ここで転調させたい」が浮かぶから。

スタートとゴールは書く前にほぼ決まっていて。

じゃあどこを強調したいとか、最重要点はここだってポイントを自由にしたいからなのですよ。
読む人に引っかかりを感じさせて、納得して欲しい。

起承転結だけじゃなく起起転結でもいいし、起転承結でもいいし、起転承結でもいい。

求められないかもしれないけど、何かを残したい。

ツイッターでもそんな感じで書いてます。
いいじゃん、自由なんだし。

ある程度の規則性を持ちつつも、変速する。
それが俺の文章です。

ツイッターで書くことじゃなかったな。
まあいいか。 noteでまとめます。

感想

ということで、noteにまとめました。
改行はnote仕様に変えましたが、大筋は変わらんでしょう。
noteに書く文章もプロットは組みません。

というか、組んで書けません。

スタートとゴールは決まっていますからね。
そこに至る過程は無限大です。

そもそも文章を「読み下せない人」ですから。

俺の読み方は「写真を連射して、徐々にピントを合わせていく」なんですよ。
それしかできない。
小中学校の国語の授業、はい野村くんここを読んで!
これが嫌でしたから。
吃るし詰まる。
脳内では連射とピント合わせしているのに、口は読み下さなきゃいけない。

全然別の作業を同時に行うんですもん。
キツイって。

俺は体言止めを多用しますが、鴻上尚文さんはそれを嫌う。
時事通信が「体言止めは美しい」というのに反発して、決裂した。

俺は別に体言止めを美しいなんて思わないし、一つの技法に過ぎないと。
鴻上さんは体言止めではないリズムの持ち主だと思うので、そこは怒るよね。
うんうん、わかる。

自分のリズムの気持ちよさは自分が一番知っているから、そこを否定されたら鴻上さんの臭さが無くなるよね。

いやあ、難しいよ。
表現ってのは。
でも立川談志はこういうでしょうね。

そんなややこしいこと、知らねえよ。