川でありたい
川は美しい。
海や湖も好きだが、やはり川に惹かれてしまう。
下呂温泉からの帰り道、飛騨の山間を流れる川を眺めながらふとそう思った。
生まれた時から海のない岐阜県で育ってきたため、川の方が慣れ親しんでいるということもあるが、理由はそれだけではない。
川は流れ続けているから、美しい。常に何処かへ向かっているから美しい。
流れ続けるからこそ、淀みが生まれない。
透き通った青と緑の美しさは、狭い岩場の隙間を縫ってでも決して進むことをやめない覚悟の強さみたいなものから生まれているのではないかと思う。
主流から外れて脇のくぼみに溜まった途端、落ち葉や藻が停滞する淀んだ水たまりになってしまう。美しさは消えてしまう。
同じ場所にとどまらないという川の有様は、視覚的な美しさと哲学的な美しさを同時に生み出している。
だから私も、川のように常に流れ続け、何処かへ向かっていたいとは思う。
ただ、もう一つ忘れてはいけないのは、じゃあ川は一体どこに向かっているのかということだ。
海であったり、湖であったり、池であったり様々だろう。
穏やかな湖に流れ着いた川は、それはそれで美しいとは思う。湖の周りに生物たちが繁栄し、その一帯で循環した生態系が発達していくことは、美しさの一つの形だろう。言い換えるならば、「安定と繁栄の理想的な形態」ともいえる。
「人」を「水」に置き換えて考えるとすると、多くの人はこの「湖」の状態を目指しているような気がする。
そして、ここが自分にとっての湖だ、と思った途端に流れることをやめる。そして、そこで繁栄する方法だけを考え出るようになる。
別にこれは間違いではない。目的もなくダラダラと流れ続けるくらいなら、最終到達の場所をそこだと定めて生活基盤を築いていくことの方がむしろ正しく、素晴らしいとさえ思う。「大人になる」ということは、「湖になる」ことと同義かもしれない。
ただ、どうせなら「海」に向かって流れ続けていたい。辿り着けるかはわからない、辿り着いたとしても不安や困難しか待っていないかもしれない。
目的地として定めるには余りにも広すぎて漠然としている。ただ「海に向かっている」という感覚だけが、自分の流れを止めずに後押ししてくれるような気がするのだ。
今年は、noteでの投稿も含めて、自分の感覚とか価値観みたいなものを整理し、咀嚼できた1年だったと思う。
来年からは、考えだけでなく、言葉だけでなく、具体的な行動にしていきたい。形にしていきたい。
流れ続ける川でいよう。
皆さん、良いお年を。
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