もし100年早く生まれていたらどういう人生だったのかシミュレートしてみた
58歳になりました。特に節目ではないですが、60の足音が聞こえてくるとなんか逃げ出したくなります。歳を重ねることに憧れは全く無い永遠の15歳です。
誕生日というと、次の一年の抱負とかに言うことになるんですが、12月生まれはすぐに新年になってしまって、似たようなことを言うことになってしまうので、何を言おうか考えているうちに「もし自分が100年早く生まれていたらどういう人生だったんだろうか?」と変なことが浮かんでしまって、誕生日にしょーもない妄想をしてしまったので書いてみます。
100年前に徳川家に生まれたとか、英国王室に生まれたとか設定しても現実感はないので、100年前の我が野水家に生まれたと仮定してみます。だいたいお祖父ちゃんのそのまたじいちゃんくらいですね、たぶん。
野水家は城下町近郊の農家でした
野水家は名前から分かる通り農家でした。野水という名字は珍しくて、日本では(世界でもだけど)推定人口1,300人、そのうち半数近くが新潟県三条市の出身です。うちの一族はこれとは全く別で、金沢市の松村という町(昔は石川郡大野庄松村)で百姓をしていた一族で、松村町には今でも20人くらいの野水さんがいます。世界第二位の野水クラスターです!
全部遠い親戚ですね。
うちも第二次大戦が終わるまでは松村にいたらしいです。
松村は、金沢城から約5kmほど海側にある集落でした。加賀百万石金沢平野のド真ん中で、金石という港から城へ向かう金沢市の街道のほとりに位置します。海から城下へ物資を運ぶ宮越往還という加賀藩が作った大街道がある以外は特に賑わっているわけでもない田舎ですが、用水は早くから整備されていて水などに困ることはなく、稲の他に野菜なども育てていたそうです。(地元の歴史によると)
ちなみにうちは自作農だったようです。そして分家の本家とか言う訳分からん話を聞いたことがあります。
(大戦後に没落して私が生まれたときには長屋暮らしの激貧でしたが)
つまり家柄としては、城下町の近くの中流農家といういたって普通の家系ということになります。
1965年生まれの私が100年早く生まれると1865年ですね。ではちょっとタイムスリップしてみます。
幼少期
1865年(0歳) 慶応元年 時は江戸、将軍は徳川家茂
アメリカは南北戦争の真っ最中でリンカーンが暗殺される
1866年(1歳) 第二次長州征伐
1867年(2歳) 徳川慶喜が征夷大将軍になるが10月に大政奉還
1868年(3歳) 戊辰戦争、12月に東京遷都、元号は明治へ
1871年(6歳) 初めての郵便局できる、新橋停車場完成、金沢県誕生
1872年(7歳) 戸籍調査で人口3311万、 田畑永代売買禁止令解除
石川県誕生、金沢で郵便業務
いきなり激動の幼少期ですね。正確にシミュレートすると私は体が弱かったので100年前だったらたぶん零歳児で死亡していると見るのが妥当なんですが、それでは妄想にならないので一応生き残ったことにします。
歴史的には激動の時代ではあるんですが、よく考えたら加賀平野の真ん中の農家に長州征伐も大政奉還もなにか影響があるわけでもない。
つまり、普通の江戸時代の農家に生まれた赤ん坊で、家の周り100mくらいが世界の全てで、毎日同じようなことしてたんでしょう。
当然、この時代は電気もガスもなく、農作業は全部人力です。
生まれる30年ほど前には天保の大飢饉があって、隣の西念村では窮状を直訴して島流し(五箇山なので正確には山流し)にあった人が100人以上いたりして、暮らしぶりはかなり苦しかったんだろうと想像します。30年経って明治になったからといってすぐに米の生産量が増えるわけでもなく、家族全員で必死で働いていたんでしょうね。
青春時代
1873年(8歳) 大徳小学校(金沢)誕生
1876年(11歳) ベルが電話機発明
1877年(12歳) 西南戦争、日本でコレラが流行、金沢第12国立銀行創立
1879年(14歳) 金沢医学校創立
1881年(16歳) 金沢城焼失
1885年(20歳) 伊藤博文が初代総理大臣に
1886年(21歳) 石川県でコレラ流行で3500人死亡
8歳のときに松村を含む大徳地区に小学校ができました!しかも我が家のそばみたいです。
さすがに自作農の長男ですからここには通ったことでしょう。ということは読み書きは子供の頃に覚えられたわけですね。よかった、よかった。
電話機とか銀行とか出てきますが、金沢はまだ電気もないし農家は貨幣経済の蚊帳の外です。おそらく暮らしはほとんど変わってないことと思います。
ちなみに高等小学校ができるのは何十年も後なので、学歴は小学校卒で終わりです。お金もないのに上の学校へ通えるわけがありません。
12歳にして、農家の働き手になるわけですね。
ちなみに7歳のときに農地の売買禁止令は解除されているので、一応職業選択の自由はあったんだと思いますが、小学校しか行っておらずお金もなかった18歳の少年農家とかに、「都会へ出て一旗揚げるぞ!」みたいな発想がでたとは到底思えません。5kmしか離れていなくても金沢なんて一度行ったか行かないかの大都会で遠い世界、たぶん頭の中の7割は米作り、3割は隣村の女の子ってところではないでしょうか?
(ちなみに100年後の18歳は3割がバイクと車、3割が女子、3割がバンド、残りでいろいろレベルでした)
21歳のときにコレラで死んでいる確率は高いんですが、これも乗り越えたとして続きにいきましょう。
20代
1887年(22歳) 東京電燈会社が配電開始
旧制第四高等中学校(金沢大学)設立
1889年(24歳) 東海道本線新橋 - 神戸間が全通、石川県工業学校開校
1890年(25歳) 初めての国会議員選挙
1891年(26歳) 上野青森間鉄道開通
1893年(28歳) 金沢市に初めて電灯がつく
1894年(29歳) 日清戦争勃発
1895年(30歳) 下関条約調印、台湾が日本領土に
当時の男子の平均結婚年齢は20代前半だったようで、たぶんこの頃に結婚してます。相手は平均値では5歳下くらいです。金沢城下の町人とは縁がなく、庄屋さんの紹介で隣村の農家から嫁いできていただくあたりが妥当な線でしょう。
28歳のときに電灯が灯ったらしいですが、家庭に入るのはずっと後です。風のうわさに聞いて「へえ、昼のように明るいってどんなんだろう?」と想像する程度でしょう。鉄道はまだ金沢に通ってないので徒歩以外の移動手段はありません。
日清戦争やってたときでも、軍人にでもならなかったら文明とは無縁の生活だったんですね。
ちなみに徴兵制は当時すでにありましたが抽選制だったそうで、しかも農家の長男で虚弱体質ですから兵役に行くことはまずなかったと思います。
30代
1896年(31歳) フォードが初の四輪自動車の試作、明治三陸大津波
1898年(33歳) 金沢駅開業、七尾港駅開業、金石馬車鉄道誕生
1900年(35歳) 日本初の公衆電話、金沢で電灯配電開始
1901年(36歳) 金沢市内電話が開通
1902年(37歳) 日英同盟
1903年(38歳) 浅草に初の映画館、ライト兄弟が人類初の飛行
1904年(39歳) 日露戦争勃発、三越呉服店設立
1905年(40歳) 日露戦争終結、フィリピンと韓国支配を日米が相互承認
33歳で文明開化がやってきます!鉄道が3km先を走ってます。たぶん見に行くくらいはしたことでしょう。そして家の前を通る金沢一の金石街道(宮越往還)に馬車が通りました。乗るお金はなかったことと思いますが、時代の変化は感じ取ったんじゃないでしょうか?
ちなみに明治元年から明治40年にかけて米の生産高は倍増しています。作付面積はほとんど変わらず品種改良によって収穫量が増えたようです。しかし農機具が近代化した(とはいっても人力機械ですが)のは大正末期ころかららしくこの時代は江戸と同様のフル人力です。
金沢市近郊の野々市市に当時の農家の暮らしぶりが書かれた文章があるんですが、それを読むとこんな感じです。
つまり、生まれた頃は食うのもやっと、30代になって米の収穫量が増えてようやく米の心配はしなくて良くなったけど、働き詰めで相変わらず食うもの着るものほぼ自給自足で貨幣経済とはあんまり縁がなかったという感じですね。
40代
1906年(41歳) 三極真空管が発明される、金沢-福井間で電話開通
1908年(43歳) アメリカでフォード・モデルT発売
1910年(45歳) 韓国併合
1911年(46歳) 日米通商航海条約で関税自主権が回復
1912年(47歳) 清が滅亡、明治天皇崩御で大正時代へ
1913年(48歳) 北陸線全線開通(東京、大阪まで行ける)金沢電灯4万灯
1914年(49歳) 辰野金吾設計による東京駅竣工、WW1勃発
48歳で金沢の電灯契約が4万灯だったようですが、当時の金沢の人口は10万人ですから比較的城下に近く街道沿いだった我が家も電気が来た確率が高いです。鉄道で東京大阪に行けるほどの身分ではなかったと思いますが、ようやく金沢城下へ遊びに行く余裕くらいはできた可能性が高いです。4万件が電灯契約してるってことは貨幣経済に近隣農家も対応していたはずですしね。
これで早寝して夜明けとともに起きなくてもよくなった!といいつつ、やっぱり早起きだったんだとは思いますが。
40代にして家にも文明がやってきた感がありますが、当時の平均寿命は40歳未満なので死んでいる確率が高いです。生きてたとしてももうご隠居さんです。今さら職業変えるとか、引っ越しするとかいう選択肢はなかったでしょうねえ。
50代
1917年(52歳) ロシア革命
1918年(53歳) 富山県で米騒動、WW1終結、スペイン風邪大流行、金沢電灯8万灯
1919年(54歳) 金沢で市内電車が運転を始める
1920年(55歳) 日本が国際連盟へ加盟
1922年(57歳) 米国と日本で初の空母、金沢市内大洪水犀川大橋など流失
1923年(58歳) 関東大震災、第1回金沢市祭、金石鉄道開通、宮市(大和百貨店)開店
53歳のときに米騒動が起こります。富山発祥ですがすぐに金沢へもやってきたようです。が、このときは飢饉ではなく、問屋の買い占めでの米の値上がりが原因ですから、農家は無関係です。ただし金沢市内から「米売ってくれー!」と市民がお金握りしめて押しかけてたかもしれません。
そして今の年齢(58歳)で目の前の街道に電車がやってきます。米売ったお金もあったでしょうから、さすがにこれには乗ったでしょう。人生の最後に電車に乗れてよかった!
おまけに宮市(今の大和デパート)もできたそうなので、そこへも行ったかもしれません。最後に日本が発展した姿を実感することができたんでしょうね。
もちろん平均寿命をかなり超えた58歳まで生きていればね、という話ですが。
結局は
期待しながら歴史を調べていったものの結論的には人生の大半は同じ家に住んで毎年朝から晩まで農作業を繰り返す人生ですね。市内から数キロしか離れていない場所でも貨幣経済に縁がなく環境的に学ぶ機会もなくでは、よほど変な人じゃない限り違う人生を歩もうとは思わなかったでしょう。
「昔はよかった」とか言う人がいますが、私は100年後に生まれていて本当によかったです。長い歴史の中で多少のゆらぎはあれど、人間はちゃんと進歩しているんですよ。
では平均寿命が伸びた令和の58歳をまた一年自由を楽しむことにします!
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