「ジャッジをしない」に隠された落とし穴について
いい悪い、ではない。
どちらか、ではなく、どちらも。
最近は、いわゆる「二項対立」あるいは「二元論」にとらわれない物の観方(みかた)をしようという考え方をよく聞くようになったなと思います。
わたしも数年前から「ジャッジをしない」ことを選択するようになってから、ずいぶんストレスが減ったように思います。
どちらか一方が正しいとか、これは良くてこれはダメとか、そういった捉え方をしないことで、より建設的な話し合いができることにとても心地よさを感じていたからです。
ですが、実はここに落とし穴がありました。
気がつかないうちに、
ジャッジをしないことが「いい」という、いい悪いの世界にハマっていたのです。
これによって何が起きたかというと、、、
ジャッジをする人に対してストレスを感じるようになってしまっていたのです。
「はぁ、、ジャッジをする人との会話は疲れるなぁ」といった具合に。
つまり、「ジャッジをする人をジャッジ」していたということです。
これに気付いた時には本当に参りました。
だって自分は「ジャッジしない」をポリシーにしてる人だと思い込んでいたので、、、飛んだ勘違いもいいところです。
思わず、「あはは」と笑ってしまいました。
そんなわけでその時以来、
「もうジャッジしてもジャッジしなくてもなんでもいいやぁ」
と思うようになりました。
といっても、わたし自身はジャッジしないほうが心地よいので、出来る限りニュートラルに物事をみることを選択しているのですが、
「ジャッジは良くない」というジャッジ(笑)を手放すことで、より自分の心が解放されたような気がしています。
ただ、ニュートラルな視点からの観察と分析は引き続き続けていきたいなと思っています。
色々と周り道をしながら日々自分の「心地よい」を見つけて行く旅はまだまだ続きそうです。
肩の力を抜いてぼちぼち楽しんでいきたいと思います^^
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もしよければ、こちらの記事も読んでいただけたら嬉しいです^^
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「本当の「優しさ」とは何か」
最後までお読みくださってありがとうございました。
またお目にかかれますように^^
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