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【観た演劇】「フィクショナル香港IBM」/ やみ・あがりシアター ※ネタバレ注意

やみ・あがりシアターの
「フィクショナル香港IBM」を観ました。

「ネタバレ」をテーマにした
SFアクションラブストーリー なのですが、
スゴく面白かったです。

やみ・あがりシアターは、
前回公演の「濫吹」(らんすい)から見始めたばかりですが、
前作も面白かったですが、
今作は前作以上にエンターテインメント性が高く、
面白いと同時に脳ミソを使わされる感じが楽しかったです。

個人的には、
テーマとか世界観は前作の「濫吹」の方が好きなのですが、
もう一度観たくなる度、誰かにオススメしたくなる度、
色々と考察して語りたくなる度は
今作「フィクショナル香港IBM」が上で、
非常に中毒性のある作品 だなと思いました。

実際、自分は2回観ましたし、
予定が合えば3回以上観ていたかもしれません。

ちなみに、今作は「ネタバレ割」という制度があり、
2回目の観劇は一般前売り価格の半額、
3回目の観劇はさらにその半額、4回目はさらにその半額……
となるため、私のように複数回観た人も多いんじゃないかと思います。

どういう面白さかっていうと
クリストファー・ノーラン みたいな感じ です。
(超主観なので、そんなんじゃねーよって人が居たらすみません。許してください。本当に)

🎦 なんか映像化されそう。

人気が出そうな面白さなので、
昨今、演劇の映像化が多い流れもあり、
ドラマ化や映画化するんじゃないかなと思いました。
(演劇だからこその作品だと思いつつ、映像は映像で違ったことができると思うので、それはそれで楽しみです)

ここまでチャラチャラした感じですみませんでした。
以下、本編です。ものすごいネタバレを含みます。

行き当たりばったり、毎日びっくり、予想外!そういうのが好き
なタイプの人は見ないことをおすすめします。

ざっくり、面白かったところを語ります。

この作品は、主人公っぽい男が初めてデートする女に対して、これから観る映画についての壮絶なネタバレをするシーンから始まるのですが、その内容が実はこの作品自体のネタバレになっていて(正確には、作品内の劇中劇のネタバレになっていて)、つまりは、

冒頭で観客にこれから始まる物語のネタバレをする

 という構成になっています。

さらに、物語はそこから
REAL と FICTION 、2つのお話を行き来して進行していきます。
※REAL、FICTIONという分類名は私が勝手に付けています。

REAL パート ⇔ FICTION パート という【物語の入れ替わり】

REAL パート
 「フィクショナル香港IBM」好きの男女の一生を描いた現実世界の物語

FICTION パート

 劇中劇である「フィクショナル香港IBM」という映画の物語

事前情報をまったく入れていなかった私は、
最初のシーンでは、冒頭のネタバレが本作品自体の
ネタバレになっていることに気が付きませんでしたが、、
FICTIONパートの冒頭で、さきほどネタバレで話していた
内容と同じことが繰り広げられたことで、
さっきの話が、この作品自体のネタバレでもあるのだろうと察しました。

さらに、FICTIONパートに入ると、

「コーディネートチェンジ」という設定による
【配役の入れ替わり】

という要素が入ってきて、より複雑に、より楽しくなっていきます。

複雑と言っても、難しくて理解できないという感じではないです。
最悪、ちゃんと理解しなくても楽しめます。ついていけます

「コーディネートチェンジ」は、FICTIONパートの主人公である I (アルファベットの「アイ」)が使う能力で、仮想空間「フィクショナル香港」において、自分と他人の身体を入れ替えることができます。

要は、ドラゴンボールのギニューの「ボディチェンジ」です。

元々、「コーディネートチェンジ」は、仮想空間「フィクショナル香港」の
開発元であるIBMから使用権限を渡された人間しか使用できないはずでしたが、
ルポを依頼されてこの世界に訪れたばかりで、使用権限を渡されていないはずの
小説家の I が見様見真似で使用できてしまいました。
(雰囲気的にはマトリックスのネオっぽい設定ですね)
DRAGON BALL 24 (ジャンプコミックス) より

「コーディネートチェンジ」の面白いところは、
物語的には、体の入れ替えですが、
メタな視点だと、【配役の入れ替え】になることです。

がしつ、いまいち

「配役の入れ替え」というと単純に聞こえますが、
よくよく考えると結構難しいことをしています。

当たり前の話ですが、
I役の奥山さんは、現実世界では本当に体を乗っ取れるわけじゃないので、
奥山さんの心は、奥山さんの体に紐づいています。
つまり、(現実→ 肉体:奥山、精神:奥山)です。
ヴェドラ役の三枝さんも同様に、(現実→ 肉体:三枝、精神:三枝)です。
※ちなみに、ヴェドラは本当は革命組織「第五番」の鉄砲玉ですが、初めてあった時はスリをされたチンピラにしか見えないのでチンピラとしてしまいました。。

その前提の上でコーディネートチェンジ後の
奥山さんの状況を考えてみると、
元々は【三枝さんの体】で演じられていた「ヴェドラ」という役を、
さっきまで「I(アイ)」として演じられていた
【奥山さんの体】を使って、
精神的には「ヴェドラ」として演じることになります。
(肉体:I(アイ)、精神:ヴェドラ、という役を演じる奥山)

がしつ、さいあく

さらに!
I(アイ)がコーディネートチェンジした後に、
さらに別の人物にコーディネートチェンジをすると、
1つ前にコーディネートチェンジされた人の体は元に戻らずに、
コーディネートチェンジした状態のままとなるので、
例えば、I(アイ)がヴェドラとコーディネートチェンジをして、ヴェドラの体を乗っ取った状態でさらにセキュリティとチェンジした場合は、以下のようになります。

元々、現実世界(芝居の外)で役者自身の肉体と精神があり、
さらにフィクションとしての役の肉体と精神がある。
役者・奥村は、【I】という役を与えられて、それを演じる。
観客は、奥村を【I】という人物だと思って、物語を見る。
そんな風に、この役はこの人、という認識を全員がしたところで、
コーディネートチェンジによって、その紐づけがコロコロと変わっていく……。

上記の例は3人までですが、劇中では5、6人くらい連続で変わっていくシーンもあり、さらにコーディネートチェンジのシーンは何回かあって、そのパターンは毎回同じというわけではないです。

客として観る分には、なんとなく観れてしまうのですが、
演じている方は、よく混乱しないなあと感心しました。
自分なら「いま私誰だっけ?」となりそう……。
それをあれだけ速い展開でやっているのはすごいなと思います。

追記
あれだけのスピードで役が入れ替わっても、
観る側が理解できちゃうのは、
役者側がわかるように演技してるからだ、
という他の人の感想を観て、ハッとしました。
(自分が誰だかわからなくなりそーとか
レベルの低いこと言ってすみませんー🙇)

ちなみに、REALパートでも、走馬灯のような回想シーンや「男」が作ったFLASHゲームという設定などで、元々はFICTIONパートで別の役を持っている人たちが、REALパートで男女を演じる部分があり、1作で何役やるんだ!と思いました……。

演劇「フィクショナル香港IBM」の重層性

これまで、演劇「フィクショナル香港IBM」の構成について、REALパートとFICTIONパートという分け方をしてきましたが、
物語的には、それらは別々の世界ではなく、FICTIONパートはREALパートの中に内包される世界です。
さらにいうと、それぞれの世界に「現実」と「仮想」が存在し、
重層的になっています。

一応作ってみたけど、わかりやすくはならなかった!

REALパートは、元々は仮想空間のない現実世界でのみの話ですが、終盤で、年を取った「男」と「女」が自分たち用の仮想空間を作って、そこで生きよう!みたいな流れになります。

FICTIONパートとは、REALパートで男と女が観ている映画「フィクショナル香港IBM」の話です。この映画は、仮想空間「フィクショナル香港IBM」が舞台の話で、物語は仮想空間で進行していきます。仮想空間というからには、その外に現実がありますが、映画内では(また、この作中のどこでも)、その現実世界は描かれることはありません。

ちなみに、仮想空間「フィクショナル香港IBM」で死んだ人間は、現実世界に強制的に戻されるようです(グリードアイランドみたいに死ぬわけではない。というか、あれは結局、ヴァーチャルでなく現実なんでしたね……)。元々は、死が実装されていませんでしたが(現実の肉体が死なない限り、仮想空間上で死ぬような現象が起きても消えることがなかった)、Uが市民にマントウを配って食べさせたことで死が実装された。

☝ 3つの「フィクショナル香港IBM」

❶ 演劇「フィクショナル香港IBM」………この演劇自体のこと(一番外側)
❷ 映画「フィクショナル香港IBM」………REALパートで男と女が観る映画であり、メタ的に言えばFICITONパートの物語のこと
❸ 仮想空間「フィクショナル香港IBM」………映画「フィクショナル香港IBM」の舞台となる仮想空間の名前が「フィクショナル香港IBM」。イメージとしては、SAOやレディ・プレイヤー1に出てくるようなフルダイブ式のVRプラットフォームだと思われる。

やみ・あがりシアターは、テーマの落とし込み方がうまい。

やみ・あがりシアターは、
単純に面白いだけでなく、
毎回テーマがあって、そのテーマをちゃんと昇華させている、
テーマの落とし込み方がうまいなと思います。

個人的な趣味で言えば、テーマがなくても、
もしくはテーマを完全に無視してる内容であっても、
面白ければいいかなという感じなのですが、、
むしろ、うまい話を作ろうとして、観客が楽しめない方が
ダメだなと思うのですが、
面白い上に、毎回いい意味でうまくまとまっているので、すごいなと思います。

取って付けたような稚拙なタイトル回収(伏線回収)とかでなく、
作品とテーマがしっかり絡みあって調和しているんです。
至高のラーメンみたいな完成度を誇っていて、
それでいて、そこに終始しない。
でっかい看板かかげて、小綺麗な内装をして、ミシュランの星3つです
ドンッ!
みたいな感じにならない。
変に敷居を上げずに、あくまでも町中華みたいな出で立ちで、
愚直に庶民へ美味しいラーメンを振る舞ってくれる。
ちゃんと面白いエンタメとしての体を成していてくれるところが好きです。

解説君みたいなキモい感じになっていますが続けます。
今作で言うと、テーマが「ネタバレ」なので、
① ネタバレが絶対ダメな女と、すぐネタバレしちゃう男が出てくる
という設定まではわかるのですが、
② その男のネタバレが、会話の中だけの話でなく、この作品自体のネタバレになっている。
という時点で、そういうこと?!となり、
③ 色々あって最終的には「記憶を消してもう一回」とか「僕はネタバレ、気にしないじゃない」とか、ネタバレまったく気にしない男vsネタバレ絶対ダメ女の設定が生きるかたちで綺麗に終わったのですごいなと思いました。
さらに!
④ 一度観終わった観客は作品の輪に組み込まれる。何度も観たくなるような作品であり、かつ「ネタバレ割」を実施し、さらに上演台本も公開することで、観客である私たちが、劇中の男女(REALパートのカップル)のように、何度も繰り返し「フィクショナル香港IBM」を周回し、「全部見たけど、全部もう一回みたいと思ってるよ」とさせる始末。しまいには、「大丈夫、観てきた僕が言うんだから間違いない!」と周りの人に紹介し始める。
そんなことで、連日満席だっただろうか……なんて妄想をしつつ、舞台外の観客の行動まで演出してしまう、やみ・あがりのスゴさを再確認しました。

色々と語ってしまいましたが、
最終的に思うのは、

設定は本質じゃない!

ってことです。

ここまで散々設定について語ってきて、いまさら何だ!
と感じるかもしれないですが、、、
しょうがないです。設定を語るのって楽しいので。
それでも、そこに終始しちゃうともったいないと思うし、
この作品は、そこに終始させないだけの懐の深さがあります。

内容が同じだって
今この瞬間は1回しかない。
役者という人間が「いま」
大声を出して、舞台を走り回り、
笑い、泣き、踊って、唾を吐く。

それを観る客も同じ。
隣のおじさんの鼻息の荒さが気になりつつ
前の席のおねえさんの何かいい香りに惑わされつつ
まだ開演前なのになぜかめっちゃ屈んで前を通っていた人がAマッソの加納だったことを知って納得しつつ
一回限りのパフォーマンスを見る。

何回観ても、内容は同じでも、毎回違う。
映像みたいにリピートできない
演劇という一回性の芸術。
それを味わえよ

ネタバレどうこうでワーワー言うとる
愚かなSNS上の文字たちである我らに
そんなことを教えてくれた気がします。

今のこの瞬間の現実がすべてだ!
Reality is the only thing... that's real.
(by James Donovan Halliday who is the creator of "OASIS")

次回公演も楽しみです。

そして、次の観劇はおそらく、劇団アンパサンドのテアトロコントです!

とはいえ、パンフレットや設定集があったら買います。

設定は本質じゃないと言ったが、
設定集、パンフレット、ファンブック
みたいのがあれば買ってしまうと思う。
まあ、映像化したら、その時に出るだろう!


余談0: I(アイ)のモデルが思い出せない

FICTIONパートの主人公のI(アイ)の 白T+ジーパン+パンツイン という格好は、ものすごい 90年代(80年代?)のSFっぽくて好きだったのだが、その元ネタが思い出せない。明確にいた気がするのだが。
パッと思いついたのは、「BANANA FISH」のアッシュ・リンクスと、作品はわからないがジャッキーチェン。ただ、どちらもイマイチしっくりこなくて、モヤモヤしている。吉田栄作ではあるまいよなあ……。

Iと比べて、アッシュはかっこよすぎる。

余談1: 落語のネタバレ、映像の一回性と演劇の一回性

最近よく落語を聞いている。
落語って
金属バットの漫才のネタにあるように、
「大昔に作った他人のネタを一生擦ってる」ので、
要は知っている話を聞くことになる。

それでも面白いのは、
噺家によって、
噺家が同じでもその日によって、
全然違うものになるからだ。

話の筋は同じでも、演じ方が違う、枕(導入の雑談みたいなもの)が違う。
着物、出囃子、天気、季節、その時の情勢、時代の空気、
聞き手側の体調やその時の心情によっても変わるだろう。

で、油断してると、
たまにサゲが変わっていたり、 
構成が変わっていたり、
同じ話でも、まったく同じようになることはない。

月を見る時に、
「おらぁ、もう月見たことあるから見ねえ」
なんて言う人はそうそういないのと同じだ。
とはいえ、よくよく考えてみれば、
月なんてそんな変わり映えしないだろうに
「今夜の月はきれいね」
なんて言う人の方がおかしくも思える。
が、それはおかしいことではない。
まったく同じ月なんてないのだ。

つまり、今夜の月は一回きり。
演劇も同じで、反復するが、まったく同じものにはならず、
一公演ごとが一回きりの作品となる。
昨日と今日は同じ内容だが、同じにはならない。
これが演劇の一回性である。

一方で、映像は、
特にフィルムでなくデジタルになって以降は、
ほぼ同じものを反復できてしまう。
要は、再現性のあるものになり、
一回性がないものに思える。

しかし、映像には映像の一回性がある。
それは、完成する瞬間の一回性である。
完成されたものは、反復されるが、変更ができない。

演劇や落語も映像として出る場合があるが、
それが「完成」とはならない。
例えば、動物園のゾウのような感じ。
見に行った時にずっと寝ていたからと言って、
それがゾウの生態だと思う人はいない。
「あー、今日はずっと寝てたね。残念だったね」
となるだけである。
特定の完成形を持たない生き物のような表現。
落語や演劇は流動的で留まらない。

映像は瞬間を焼き付け、残すことができる。
演劇は残らずに、いまこの瞬間に燃えて消える。

どちらがいいかはわからないが、私はどちらも好きだ。
ただ、死者は映像に残るが、演劇はできない。

余談2: どうでもいい雑感

他に作品を通して思ったこと。

◆ 演者が、コーディネートチェンジをどう捉えて演じていたのかが気になった。
単純に配役チェンジと捉えて演じているのか、
精神的に【A】という役の精神が【A】の肉体から
【B】という別の肉体(自分の体)にやってきたという感覚で演じているのか

◆ コーディネートチェンジと「名前」、シニフィアン・シニフィエみたいなこと……
そもそも、この役=この人って認識できるのは、名前があるからで、
でも、現実と違って(あるいは現実でもそうかもしれないが)、
演劇でこの人がこの役をやりますっていうのは、
ただ、そうしますって決めたからそうなっただけで、絶対的なものではない。
だから、坂本龍馬を、福山雅治がやったり、小栗旬がやったり、内野聖陽がやったりする。
観客は、福山雅治を見て、本当に坂本龍馬だ!とは思わず、
別の人間が役として演じていることを知っている。
演じる人(例えば、福山雅治)には、その人自身の別の人格があるということを知っている。

で、今回のコーディネートチェンジみたいなことが起きると、
ただでさえ絶対的でない名前と人の結び付きがさらに揺らぐ。
なんなら、途中入場して、コーディネートチェンジ前の状態を見れなかった人は、
ヴェドラを乗っ取ったI(アイ)を「ヴェドラを乗っ取ったI(アイ)」とは認識せず、
「ヴェドラの見た目のそういう奴」と認識するだろう。

哲学的な感じでいえば、シニフィアンとシニフィエがぐちゃぐちゃ。
「りんご」が時によって、【みかん】になったり、【スイカ】になったりする。

こう考えると、肉体を入れ替えているのではなく、名前を入れ替えているのだ。

例えば、役名の書かれたネームプレートを胸にぶら下げて、
それを交換したら、わかりやすいだろう。

ただ、前述のように、名前とは人間が勝手につけたもので、実体がない。
だが、実施的には、便宜上、それが本体のように振る舞う。
肉体が本体なのか、精神が本体なのか、みたいな話もあるが、
精神が本体という派閥が多い気がするので、
精神が本体だとして、精神は目に見えず、認識ができないので、名前で見分けるしかない。
マナなのかカナなのか、本当のところは私にはわからない。

(コーディネートチェンジ後も普通に認識できるから、人間の認識能力はすごい。
芝居の観賞って実は結構、高度な処理をしているのだなと思う。
人間的に考えれば無意識的な処理だが、
例えば、これをコンピューターで行おうとするとどうなのかということ。)

など、色々とグルグル考えがめぐるが、答えは出ないし、長くなるので、考えるのをやめた。

余談3: 森下亮さんのおかげ

やみ・あがりシアターを知れたのは、
クロムモリブデンの森下亮さんのおかげだ。
昨年、「知ら知ら」(「君の知らない名作僕が教えるから僕の知らない名作君が教えて」というイベント)をアンパサンドの安藤奎さん目当てで見に行って、その時にやみ・あがりシアターの存在を聞いて、「濫吹」を観に行った。そこでハマって、今回も観に行けたのだった。森下亮さんが出演していた「女装、男装、冬支度」も面白かったし、森下さんは信頼できる兄だ。

余談4: さんなぎかわいい

オヤジ(未来の大統領)がある行動をする時に「さわやかハンバーグ!」って言っていたらしいが、まったくそう聞こえなかった。仮に映像化する時は、さんなぎはさんなぎのままで行ってほしい。オヤジを一家に一台ほしい。役が変わった時に意外に声が低くて大人だったのでドキッとした。コナンみたいだった。

余談5 ソラニンの歌詞の真逆

SF要素が好きなので、そっちばかり語ってしまったが、フィクショナル香港IBMはラブストーリーだ。いや、ラブストーリーがメインではないと個人的には感じだが、、ラブストーリーを語るなら、REALパートだろう。
劇中、私たちは何回も男と女の別れを見るが、途中でそれが、あの時もし別れていたら…というifであったと分かる。(途中で出てくる男が作ったFLASHゲームの内容だったのかな?)
で、結局、彼らは死ぬまで一緒のまま死を迎えたはずだ。最後は2つのコーヒーカップになって。
で、彼らのそれって、アジカンのソラニンの歌詞の真逆だなと思った。

あの時こうしてれば あの日に戻れれば
あの頃の僕にはもう 戻れないよ

ソラニン/ASIAN KUNG-FU GENERATION
漫画ソラニンで考えると、死別という別の要素も
乗っかちゃうので、歌詞としてフラットに見る。

「あの時、こうしていれば」
という考えは同じなんだけど
彼らは別れなかった。
ソラニンはたぶん
「あの時、ああしてれば、別れなかったのかな?」という後悔から前を向こうとする歌で、
フィクショナル香港IBMは、
「あの時もし別れちゃってたら、どうなってたんだろうね…」というifだ。
別れなかったパターン。
2人にとっては、おそらくトゥルーエンドなパターン。
それが一番幸せかはわからない、
別のルートに行ってても、また別の人と別の幸せがあったと思うし、それが今と比べてどうとか、わからないし、比較する必要もない。
フレッシュできない
取り返しのつかないのが人生
選んだ選択肢の積み重ね
結果、まだ一緒にいる。
奇跡だ。
いや、本当はどのルートも確率は多分同じだから
ぜんぶ奇跡のルートなんだけど

さすがにフレッシュされてたわけじゃないはず。
そんなうまくいかないって思うけど、
それはないはず。
フィクショナル香港IBMのような
世界が実装されていて
男と女は何回も繰り返し間違えて
“正しい”結末にたどり着いた、とか。
あの時、ああしてたらのifの妄想だと思ってたものが、すべて本当に起こったこと、いや、正確には仮想空間でシミュレーションされたことだった、とか。。
それは深読みというか誤読だろう。
結局、SF的考察になっている!

男と女の恋愛がうまく行き過ぎだ
と思うけど
たぶん、そこに至るまでに
ソラニン的な別れを繰り返した末に
たどり着いたのだ
運命と思えばロマンチックだが、
結果論でもあると思う。
結果的に
それでも、寄り添って
最後まであんな風に思えてたら
素敵やん

インスタで見た
ミキティが庄司に私に飽きてない?
としつこく聞く動画を思い出した。
もうそういうのは通り越したよ

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