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明治生まれの祖父のお金の付き合い方。

祖父は明治36年生まれの人だった。
岐阜の下麻生という田舎で生まれ育った。
彼の年表の中には、日本が関わった戦争が3回出てくる。
一緒に暮らしていた私は、よく祖父から
「俺は徴兵検査で『甲』やった。けど、戦争には行っとらん」と聞かされていた。
祖父は7人兄弟の長男。父親が亡くなったのが早かったため、1番下の弟は祖父が名付けたという。
当時、若くして家長になった祖父は徴兵免除になったそうだ。

祖父の仕事は「筏(いかだ)乗り」。
なに、それ?と言う人に説明すると、長野で切り出した木材を飛騨川に流して、下流の流れが緩やかな場所に溜めて、筏(いかだ)を組み、それを操舵して急流を下り、更に下流に運ぶ仕事である。(私が思うに観光地にある『急流下り』『ライン下り』は、その筏乗りたちの技術の名残だと思う。)
帰りは歩いて上流に戻るという、大変体力のある仕事だ。
その為か、祖父は10人も子供をこさえ17人の孫に恵まれ100歳で亡くなるのだが、認知症を患った晩年はストッパーのかかった車椅子さえも動かし、2台ほど車椅子を壊す体力の有り余る人であった。
鉄道が普及し、木材は鉄道で運ばれるようになった際は、国鉄に召し上げられ荷夫として駅で働くようになり、その仕事も無くなったら祖父はとても器用な人だったので知人の伝手を頼って、なんだかんだと日々の生活をするには困らない程度に仕事をしていたそうだ。
そんな祖父の一番下の弟は、某大手保険会社の専務まで上り詰めた人だったりする。私の家系の中でも大出世である。給料なんか祖父よりもたくさん稼いでいたそんな人が祖父のことを「兄貴が兄弟の中で一番頭が良い」と言っていた。
そんな祖父は「家族でケンカしなくていいから、貧しくていい」と言っていた。
子供心に『なるほど』と納得したのを覚えている。
実際祖父が亡くなった時、祖父の遺言書を読んでみたら
「家は〇〇(父)にやってくれ。」
と文頭にあり、そのあとに続いて書いてあったのは自分の『土葬』のための葬式で持つ遺影や棺桶の持つ人を指定してあり、あとは焼香の順番だった。
それを見て、私の父とかも含めて親戚一同「今は火葬だわっ!しかも、もう亡くなっとる人まで役割に入っとるやないか」と笑っていた。
遺産相続するものが築100年以上のボロ家だけの家庭の葬式はなんとも平和だなぁ、と感じ祖父が言っていたことは真理だなぁ、とも思った。

お金は確かに必要だが、自分や家族が過ごせるだけの生活費さえあればいいし、その生活費のためなら自分にできそうなことは選り好みせず、それを仕事にすれば良い。
ありつけた仕事は、自分なりに真面目に取り組めばいいし、無理にお金も後継に残す必要はなし。家族がバラバラになるものを残すのは、『たわけ(岐阜,愛知の方言で愚か者)』のすること。

そんなことを祖父は、生きてる時も、死んでからも教えてくれていたように思う。




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