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競争社会に競争心は必要か―ゲームが嫌いだった私―①まえおき

私はゲームが嫌いだった。

いつからでしょう。嫌いというより、苦手だったのです。
とりわけ、スマブラが苦手。
スマブラをやる雰囲気になったら、こっそりオイトマしてきました。
なぜだったのか。当時のことを振り返ってみます。
第一に、画面上で何が起こっているのかわからなかったから。
キャラが多すぎる。動体視力が追いつかない。どのボタンがどう作用するのかわからない。これは単純に私の技術の問題。
第二に、ゲームが弱いと周りが気を遣う
(ように感じた)から。

互いにとって心地よいものではありません。
勝手に感じていただけかもしれませんが。あと、私のパーソナリティによるところが大きかったかしら。
第三に、勝てないもので勝負するのが嫌だったから。
これが、良くない。
ある種の妬み嫉み僻みもあるのかしら。
でも冷静になると非常におかしな考えです。
まず、当たり前ですがゲームは娯楽で、競争ではありません。
競争という形ですが、それはあくまでも娯楽として楽しさを倍増させるための装置でしょう。
娯楽という目的のための手段に過ぎません。
競争を楽しめないとしたら、それは競争に対する捉え方が間違っているはずです。
そして、避けてばかりいるからいつまで経ってもうまくならない。
ティーンの頃は、ことゲームに関しては人間関係に苦労したものです。
否、ゲームに限った話ではありませんね。良好な人間関係にとってプラスかマイナスかでいえば、間違いなくマイナスだったといえるでしょう。

競争ってなんだろう

競争は避けられない
人が複数いれば、自ずと競争が生じます。
未就学児だって、かけっことか、泥団子のきれいさとか(なんで泥を丸めたがるんでしょうね)、差異があるし、何かしらの競争があります。
兄弟がいれば、第二子誕生とともに、親の関与を懸けた競争があるのでしょうね(一人っ子やし、しらんけど。)。
学齢期以降は言わずもがな、試験や仕事で実績をあげたか、あげていないかという話になります。
競争は避けられないのです。
健全なメリトクラシー
個人にとって競争があることがどの次元まで望ましいかはわかりませんが、競争が存在することは便利かもしれません。
頑張りや能力によらず、常に評価されるものとされない者、あるいは勝者と敗者が元々決まっているというのは、不平等ではないでしょうか(もちろん、前提として、頑張りたいのに頑張れない、頑張れるかどうかが元々決まっている不平等があるとすれば真っ先に是正すべきですが。)。
そもそも、自分にとってメリットのある人に対しては、感謝したくなるものです。メリットというと少しドライに聞こえるかもしれませんが、かけがえのない人とか、そういうのも広く含むイメージで言っています。
社会にとってメリットがあれば、社会から感謝されます。感謝の気持ちで足りなければ、報酬を支払うでしょう。そして、メリットがある人と一緒になり、メリットのある人が集団を、社会を、国家を治める。
これがそうはいかないとなると、ダブルスタンダードになります。「あの人は、あまり貢献しないけれど、ええとこの子やさかい報酬が弾んでも仕方ない。」「あの人は私にとって大切な人やけど、身分が違うから一緒になれない。」でも、心では、自分のために何かしてくれた人にこそ感謝を伝えたいし、自分にとって大切な人とは一緒にいたい。ズレが生じています。これは不健全ではないでしょうか。
競争は道具
もちろん、誰もがかけがえのない存在ですし、誰かにとって必要な存在なはずです。ただ一方で、それではちょっと収拾がつかないので、便宜上、わかりやすいものさしを使って順位をつける。競争は、メリトクラシーを支えるための道具なのでしょう。

心地よさが大事

ゲームの話と共通しているのは、競争はそれ自体が目的ではなく、人間が楽しんだり、喜んだり、感謝したり、幸せを感じたりするための手段に過ぎないということです。
だとすれば、競争それ自体で人間が苦しんだり、悲しんだり、罵倒したり、不幸になったりするのは、本末転倒ではないでしょうか。
往々にして、こういうことは競争それ自体を目的と捉えたときに生じる感情ではないかと思います。
「どうすれば勝負に勝てるか」ではなく「どうすればみんなが心地よくなれるか」を考えれば、最終的にはみんなハッピーになれるのではないでしょうか。

②本題に続きます。

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