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夢の街、夢のような街

陸前高田市は僕のルーツがある街。
美しい自然に囲まれ、穏やかな時が流れる街で過ごした時間は、
まるで夢のようだった。

"だった"と書いてしまうと少し語弊があるのだけど、ここは敢えて。


9年前、まるごと津波に飲み込まれた街、陸前高田市。

そこは母の故郷。

夏になると毎年のように帰省して、1週間ほどの非日常を満喫したものだった。

岩手が誇るリアス式海岸の南端に位置する陸前高田市は、
海からすぐ山の自然豊かな街。風光明媚が形になったような美しい街。

そこは母の故郷。

そして、僕にとってもまた、夢のような故郷だった。


私立中学に進学し都心まで通い始めた僕にとって、地元は"故郷"と感じられる街ではなかった。小学校の同級生達とはみるみる疎遠になってしまったし。

そして都内まで1時間もかからないくらいのベッドタウン
都会育ちと言えるほどではないけれど、中学生にして都会に繰り出して遊んでいれば、すっかりシティボーイ。

そんな僕にとって、陸前高田市はまるで夢のような故郷だった。


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母方の家系は武家の血筋。地元では二つ名が通じるほど、謎に名が通って存在感のある日本家屋が住まいだった。

そして祖父はいつも明るく気さくな、街の人気者。長女として産まれたもまた、明るくも勝ち気で優秀な街の人気者に育った。

人気者親子の孫・子供として産まれた僕は、それはそれは可愛がられた。
祖母は若くして亡くなっていたものの、近所のお婆ちゃん達から本当の孫のように愛されていたように思う。

よく遊んでもらったお兄ちゃんの家に、本人不在にも関わらず上がり込ませてもらってゲーム(初代ファミコン!)したり、畑から大声で呼ばれてキュウリやトウモロコシを抱えきれないほどもらったり地元のお祭りに特別に参加させてもらって山車を引っ張ったり

半ば強制的に"子供らしく"あることが許されたそこは、賢いことばかり褒められ、賢い子供としての振る舞いを求められていた僕にとって、夢のような場所だった。


件の屋敷には土間があり、囲炉裏の名残りがあり、縁側があり、井戸があった。

ほのかにカビ臭く埃っぽくて、木の香りと畳の肌触りが五感に訴えかけてくる非日常

玄関は今じゃ見ることもない丸球捻締の鍵。木枠にガラスが嵌め込まれた古い引き戸の音は今も耳に残る。鍵なんてかけない。訪ねてくる人は勝手に戸を開けて「ごめんくださーい!」だ。

縁側で日差しを凌ぐだけで十分に心地よいくらい、東北の夏は過ごしやすい。カタカタと首を振りネットの掛けられた古い扇風機にそよがれながら、ついウトウトしたり。夏休みの宿題終わらないなぁ。。

夜になれば、近くの体育館で練習している祭り囃子が響いてくる。この季節がやってきた。篠笛が奏でるあの音律、和太鼓が轟かせるあの鼓動は今も忘れない。

そして、祭り囃子の合間を縫うように、遠くからかすかに聞こえる波の音

まるで絵本の中にでもいるような。トトロでも出てきそうな。
そんな夢のような場所だった。

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そして9年前、陸前高田市は本当に夢のような街になってしまった。

震災の後に訪れたのは2年後2013年のこと。TOP画像はこの時に、近所のお寺から海の方を撮ったもの。

まるで全部夢だったかのように、ずいぶんと違う姿だった。

散歩に出た先で雨に振られてビルケンシュトック(サンダル)のコルクをびしゃびしゃにしながら歩いた気仙大橋も。当時好きだった女の子と延々電話して夜を過ごしたキャピタルホテル1000も。母の幼馴染のオバちゃんがやっていたお店も。そのオバちゃんの家族とBBQした堤防も。2枚で300円の焼きホタテが絶品だった海沿いの道の駅も、従兄弟家族と食べに行った"キットココニール"とかいう振り切った名前の焼肉屋さんも。

全部夢だったかのように

誇らしかった屋敷も。ほんの100m先は何も起きなかったような見慣れた風景なのに。
そんな夢現の境目から海に目を向けると、見通しが良くなったこともあって、こんなにも近かったかと驚かされた。波の音は遠くから聞こえていたワケではなかった。

夢のような街は、本当に夢だったのか。とでも思わされた気分だった。


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震災当時、明るく気さくな祖父は、存外に飄々としていた

不幸中の幸いか、冬の間は母と叔父のいる関東で過ごしていたので、難を逃れたのだけれど、

「また死に損なったわ!」と言いながら高笑いしていた。
たくましいものだと、どこか感心した。

戦争では捕虜になりながらも、日英露蒙古と4ヶ国語を理解することから重宝されて生き延びたんだ、と話が続いた。
多分100回くらい聞いたよ。しかし優秀である。
そして、そりゃたくましいわけだ。


そんな祖父も、一昨年に亡くなった。祖母を亡くしてから30年も経っていた。長い人生だったろう。

これを機会に、離れていた陸前高田市へとまた帰省するようになった。

夢から覚めて現実になった街は、今も少しずつ姿を変えている。

昨年9月22日には『高田松原津波復興祈念公園』が完成し、新しく生まれ変わった『道の駅「高田松原」』と、震災の記録を展示した『東日本大震災津波伝承館』がオープンした。

奇しくもその数日後に訪れることとなり、思わず撮った写真を貼っておきます。あ、各施設HPへのリンクも貼りますね。

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[海側から見た公園・左半分が道の駅、右が伝承館]
画像1

[逆の位置から海側を撮ったもの]


画像2

[各種HP]
道の駅「高田松原」
https://takata-matsubara.com/
東日本大震災津波伝承館
https://iwate-tsunami-memorial.jp/
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街が変わっていくことは、正直、複雑な気持ちだったりもする。

どんどん現実になっていく街は、ますますあの時を夢にしてしまうような気もして。

でも当然、新しくなっていくこの街の行く末を見たいとも思っている。

親に連れられて夢のように過ごした非日常から、
自分の意志でこの街に通うことを選び、人生の日常として大切にしたい。

この街のために何ができるだろう。何かをできるようになりたいなぁ。
なんて思った。

今はこうして文章にするくらいしかできないのだけど。
来年にはどうなっているかな、その先ではどうなるだろう。

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「人生とは闘いである」

軍人だった祖父らしい口癖。
幾度となく聞かされるうちに、僕も同じ想いを胸に生きてきたように思う。

ただ、ちょっと呪いのような掛かり方もしてしまって。僕は闘い続けて生きた挙げ句に身体を壊してしまった。多分、闘いの捉え方を間違ったような気がするけど笑

祖父が亡くなり、久しぶりに出向いた陸前高田市で、自分の人生を考え直したことが退職のキッカケになったりもした。

休養中は新しい人生を得たような時間だった。これもまた夢だったかのような。
ルーツを大切に生きる、と改めて決意できたことで、人生には闘い以外の意味ができた。のかもしれない。


祖父には夢があった。

陸軍士官学校に所属していたものの、捕虜として帰国が遅れたために、帝国大学に入り損ねたと言うのだ。曰く、帰国後は皆それぞれ帝国大学に入っていったと。確かに、祖父の優秀さを思えば、納得できなくもない。

どこまで本当かは分からない(知りたくもない)が、古い時代の人ということもあり、帝国大学への憧れはずいぶん強かったようだった。

そんなこんなで、いや、どんな具合かは分からないが、
紆余曲折の果てに孫が旧帝大に進学し、その夢を叶えてあげられたのは、今思えばなかなか誇らしいことだったかもしれない。

入学式に一緒に参加して嬉しそうにしている顔を見て、こんなことならさっさと入ってやれば良かった、と思ったのを覚えている笑


あとひとつ、亡くなる直前の休日に顔を見に行けたこと。
僕の人生で祖父にできた孝行はこんなもの。決して卑下するわけではなく、十分に誇らしいのだけど。

あとは引き続き、我がルーツを想って生きればよいのだと言い聞かせる。

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何やら整いきらぬままの想いだったんですが、どうしても文章にしたくて。時節柄みたいな書き方はあまり好みでもないのに、どうしても。

読んでくださっている方にもし伝えたいことがあるとしたら、
ルーツを大切に想える、ってのは素敵なことですから、何か心当たりがあるようなら改めて想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
くらいのものです。

少々エクスキューズを入れたい部分がありつつも、編集後記に譲るとします。

みなさま、ぜひ、陸前高田市をご贔屓に
お近くにお越しでなくとも、ぜひ。

ご紹介した『高田松原津波復興祈念公園』の『海を望む場』から見た海の写真で、この文章を締めます。


画像3

ということで、
お付き合いいただき、ありがとうございました!


<編集後記>
ずいぶんと好き勝手に書いてしまいました。
入れたかったエクスキューズは、僕自身を"当事者"と呼べるのか、という疑念についてです。

言葉の意味からすれば、街で暮らしていた・暮らしたことがある方々こそが当事者であり、さも僕もその一員であるかのように文章を書くことに、恐れ多さがあります。
その身に負った労を鑑みれば、僕は当事者としておよそ相応しくなく、むしろ余所者ですらあります。

また、ここで言う当事者の方々にとっての陸前高田市は紛れも無い現実でしかなく、"夢のような場所"とした表現は極めて独善的かつ"余所者"的な意味を孕んでいるとも言えます。

となればこの文章は、機会に乗じて好きに書いただけ、と貶められても仕方ないわけです。
果たして許容できるものなのか、看過していただけるものなのか、もはや考えるだけドツボにはまる感覚があり、気持ちに任せて筆を進めた次第です。

もし、不快な想いをさせてしまった方がいらっしゃいましたら、
お詫び申し上げるとともに、
陸前高田市に対する強い愛情・愛着によって進んだ筆である
ということに免じてご容赦いただけると幸いです。

なお、なるべく情景が浮かぶような・想像に負担の少ないような表現を用いる意識で書きました。どこか捻くれた少年が心と感性を開いて過ごせた場所である、ということが伝わっていたら嬉しいです。

末筆にはなりますが、
亡くなられた方のご冥福と、依然 行方不明となっている方々の少しでも早い発見と、そして被災された方々の日々が着実に前進するよう祈りつつ、何か少しでもお返しできるような人生であろうと誓い、終わります。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました!

2020年3月11日
納木 まもる




読んでいただいてありがとうございます。貴重な時間をいただいていることは自覚しつつ、窮屈にならない程度にやっていきます。