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東京大学(本郷&駒場)

いつまでもあると思うな古い建物
というわけで、古い建物を積極的に見に行くようにしています。
日本はとくに地震が多いですし、保存したくても資金が足りなかったり管理やメンテナンスが難しかったりとかありますしね…

古い建物の宝庫、実は大学にあるのでは、と最近思いはじめました。
わたしにとってはテーマパークです。

東京大学はあちこちにキャンパスがありますが、古い建物を観察するなら、何はさておき本郷キャンパスです。とにかくたくさんある。
(よくわからなくて断定できないことが多すぎるので、以降全体的に推測の語尾になっています…。あと、建築は素人なので何か盛大に間違えてたらすみません。)

建物がでかくて道が広くて外国みたいです。
ハリーポッターみたいな世界でお勉強したい、という場合はほんとにおすすめです。

本郷キャンパス

安田講堂と赤門

東大のシンボル的な建物というと、安田講堂赤門を思い浮かべると思いますが、見どころはそれ以外にも山ほどあります。イメージがそれで固定されていたら、もったいないです。

安田講堂(大講堂) 1925年完成 登録有形文化財
安田財閥の創始者 安田善次郎の寄付により建設された。
他が黄土色のスクラッチタイルなのに対し、ここだけ赤レンガ。地下に食堂があります。
旧加賀屋敷御守殿門(赤門) 1827年 重要文化財
耐震性の問題で現在閉門中です。昼間に扉が全部閉まった状態を見れるのでこれはこれで。
メインが切妻+両サイドが唐破風。
文政10(1827)年、加賀藩第13代藩主 前田斉泰に輿入れした、
第11代将軍家斉の第21女 溶姫をお迎えするために建てられた門です。

本郷キャンパスは、旧加賀藩前田家上屋敷跡につくられています。前田家とのご縁はとても深く、何をするにつけても前田家がついてまわります。

駒場キャンパスの隣の駒場公園に、前田家のお屋敷(旧前田家本邸)があります。なぜここにあるのかというと、駒場農学校(東京帝国大学農学部)が本郷に移転するときに、前田家が本郷に持っていた敷地(12,600坪)と、駒場農学校の敷地(40,000坪)を交換したからです。

その後駒場に1929年に完成したのが旧前田家本邸で、現在は都の施設として公開されています。旧前田家本邸についても写真撮ってきたので、そのうちまとめようと思ってます。ほんとにすてきなお屋敷です。
(本郷の立派なお屋敷を手放したあとにこんなのを建てられるって、前田家どんだけお金持ちなんだ…と思いました)

旧前田家本邸洋館。和館もあります。

ここで混乱するのが、前田家が持っていた本郷の土地は明治になったときに東大にあげたんじゃないの? というところなんですが、全部が大学になったわけではなく、南西側は前田家の敷地で、そこに前田家のお屋敷があったようです。たしかに、全部あげちゃったら住むとこない。

本郷のお屋敷は、洋館(1907年完成、渡辺譲設計)と和館(1905年完成、北沢虎造設計)があって、写真で見たところ、洋館はルネサンス様式の豪華な感じで、森の中のお城みたいです。なぜそんなに豪華なのかというと、天皇に遊びに来て欲しかったから、らしい(1910年に念願かなっているようです)。

『東京風景』,小川一真出版部,明44.4.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764167 (参照 2024-07-05)

1926年の土地交換で、この洋館と和館も東大が譲り受け、「懐徳館」と命名されました(現在、本郷キャンパスにある懐徳館は、空襲で焼失後に再建された和館を指します)。

安田講堂にしても、きっかけは貴人が滞在するにふさわしい施設がない、つくろう、ってところからスタートしているようなので、天皇をお迎えできるかどうか、というのは、いろんなところの建築動機(+正当性、許可とか予算とかあるし)になってるみたいです。正門が整えられたのもそうで、天皇をお迎えするのにちゃんとした門がないじゃないか、みたいな経緯らしい(昔は卒業証書授与式などに天皇の行幸があったそうです)。

岸田省吾 [著]『東京大学本郷キャンパスの形成と変容に関する研究』.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3140867 (参照 2024-07-04)
1909年の状態。右下に前田邸、右上に岩崎邸があります。

1945年の東京大空襲で焼失したのが残念ですが、残っていたら近所に旧岩崎邸もあることだし、いい洋館スポットになっていただろうなと思います。

旧岩崎邸。本郷キャンパスの南東のほうにあります。こちらも都の施設です。


かわいい内田ゴシック

本郷キャンパスのゴシック様式の建物群を見ていると、デザインが統一されているのがすぐわかると思います。玄関や外壁のデザインに、共通するパーツが見つかります。これらの特徴は、設計者内田祥三の名から、「内田ゴシック」と呼ばれています。
(登場人物が偉大すぎるので、全員に「先生」を付けたい気持ちなんですが、ややこしくなるので敬称略で失礼します…)

玄関のアーチや外壁の縦のラインが特徴的です。

こういったデザインは、19世紀後半からアメリカの大学建築によく使われていたカレッジ・ゴシック様式なんだそうです。
なぜゴシックなのかというと、お勉強するところだから。建物の用途に合わせて建築様式を選ぶ、というお約束があるそうです。

たしかに、「博物館」というと数本の柱の上に三角屋根のギリシャ神殿みたいなイメージがあるし(実際、ミュージアムのアイコンもそうですし、あつ森の博物館もこのデザインでした)、「劇場」というとパリのオペラ座みたいな華やかな感じが合うなと思います。

関東大震災の影響

今残っている建物の大半は、大学創設期からあったものではなく、大半は1923年の関東大震災の復興プロジェクトで建てられたものです。
「関東大震災を耐え抜いた」という枕詞をよく耳にしていたので、てっきり大学創設期から増床を繰り返してきたものがそのまま残っているのだろうと思い込んでました。

耐え抜いたのは、そのとき建設中だった安田講堂(1925年完成)と工学部2号館(1924年完成)、理学部化学東館(1916年完成、最古の校舎)、コミュニケーションセンター(1910年完成)のようです。古いと思っていた駒場寮ですら1935年でした(耐え抜いたのは空襲だったか)。
駒場寮の設計も内田祥三ですが、こちらは内田ゴシックというより同潤会アパートぽいです。同潤会アパートも内田祥三ワークスです。

でも、太宰治(1930年入学)の頃にはだいたい今に近い感じになっていたみたいです。太宰と同じ景色を見ている…と考えると感慨深いです。
太宰治『逆行』に収録の「盗賊」は、本郷キャンパスツアーみたいな内容になっていて、土地勘があるとかなり楽しめます。短いし、青空文庫で読めるので、興味ありましたら。

1933(昭和8)年の構内地図を見ていると、配置が今とあまり変わらないです。安田講堂もあるし、図書館も今の場所にある。芥川龍之介が怒っていたという、燃えやすい薬品のある薬物学教室の近くに図書館なんかつくるから…(初期の図書館は震災で焼失)っていうのも、これで改善されたんでしょうか。

東京帝国大学 編『東京帝国大学一覧』昭和8年度,東京帝国大学,1933.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453461 (参照 2024-07-03)
※一部をトリミングしています

もっと前の、夏目漱石の時代はだいぶ違う感じで、その頃の建物には、御雇外国人ジョサイア・コンドル設計の法文科大学の校舎もあったようです。ここにもコンドルの影が…という感じですが、東大で講師やってるし、大学創設は国家事業でもあったので、絡みがないわけないですよね。

小川一真 編『東京帝国大学』明33,小川写真製版所,明33,37.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813161 (参照 2024-07-05)
※複数ページをつなげています
1900年頃の状態。工科大学、理科大学、法文科大学、図書館が見えます。

コンドルは日本文化大好きだったようで、日本人女性と結婚したり、浮世絵師 河鍋暁斎に弟子入りしたりして、最後は日本で亡くなっています。教科書でおなじみ「コンドル(Conder)」は、本当は「コンダー」って読むらしい。

黒田鵬心 編『東京百建築』,建築画報社,大正4.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967150 (参照 2024-07-03)

コンドル設計の建物はいろいろ見に行ったんですが(めぼしい洋館を見に行くとだいたいコンドルだったので)、どれを見てもノリノリでつくってる感じでした。法文科大学もきっとかわいかったんだろうな、と思います。単純にデザインを複製しないで、統一感を保ちつつも、部屋ごとにバリエーションを細かく変えてくるんですよねコンドル。現物を見たかった…。

工科大学本館はコンドルの生徒、辰野金吾の設計だそうです。これも見たかった。

小川一真 編『東京帝国大学』明33,小川写真製版所,明33,37.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813161 (参照 2024-07-03)


いつから帝国大学?

ざっくり東大の沿革を拾ってみます(東大公式サイト、年号に西暦併記がないので頭が疲れました…。さすがに年号が5つもあると混乱します…)。

1877(明治10)年4月12日 東京開成学校+東京医学校で「東京大学」創設(法理文
1886(明治19)年 「帝国大学」に改称(が追加)
1890(明治23)年 農科大学を設置(が追加)
1897(明治30)年 「東京帝国大学」に改称

1919(大正8)年 分科大学から学部制へ(経済が追加)
1923(大正12)年 関東大震災
1926(大正15)年 前田家(本郷区本富士町)と、農学部(駒場)で土地交換
1947(昭和22)年 「東京大学」に改称
1949(昭和24)年 法・医・工・文・理・農・経済・教養・教育の9学部設置(教養教育が追加)

戦前の文学作品で「帝国大学」とか「東京帝国大学」とぎょうぎょうしい字面で書かれていることが多いので、帝国→東京という流れになったのだろうと思っていたら、最初は「東京大学」だったんですね。途中で名前を盛ったのか。初期の資料は「東京大学」で調べないとでてこないトラップ。

東京大学の概要 2024』というPDFに沿革図があり、それを見ると流れがわかりやすいです。しかしここでも年号表記…。
詳しい構内地図もあるので、見学したいかたにもおすすめです。

各学部も最初から本郷にあったわけではなくって、理学部は神田錦町から、工科大学は虎ノ門から、農学部は駒場から(ここに前田家と一高が絡む)、それぞれ移転して集まってきたようです。

文豪の入学した時期を調べてみると、
森鴎外が1873年(東京医学校)、
夏目漱石が1890年(帝国大学)、
芥川龍之介が1913年(東京帝国大学)、
太宰治が1930年(東京帝国大学)なので、
太宰治のころにはだいぶできあがってる感あります。
牧野冨太郎東京大学理学部植物学教室に出入りし始めたのは、1884年頃からのようなので、帝国大学になる前の時期です。

岸田省吾 [著]『東京大学本郷キャンパスの形成と変容に関する研究』.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3140867 (参照 2024-07-04)
漱石のころはこんな感じ?

こんな感じで、時期によって東京大学なのか帝国大学なのか東京帝国大学なのか変わります。この記事ではめんどうなのでざっくり「東大」と呼んでいます。学部の名称は、それが具体的に何を示しているのか考えているとわけがわからなくなるので、公式サイトからそのまま連れてきています。

内田ゴシックとコンドル

内田祥三(建築学科教授&営繕課長)は、コンドルの生徒の辰野金吾の、そのまた生徒の佐野利器に学んだそうです。
コンドル→辰野金吾→佐野利器→内田祥三
というつながりです。
内田祥三の生徒が岸田日出刀で、安田講堂を一緒につくっています。

内田ゴシックには、コンドルの意匠を継承した部分もあるそうで、写真を見てみると、どのあたりを取り入れたのかなんとなくわかります。
見たい!と思ったら検索で辿り着けてしまう国立国会図書館デジタルコレクション、ほんとありがたいです。

小川一真 編『東京帝国大学』明33,小川写真製版所,明33,37.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813161 (参照 2024-07-03)

たとえばこの三角屋根と尖頭アーチの開口部は、玄関のデザインに継承されています。

たぶん法文2号館あたり? このデザインのバリエーションも多いです。

このデザインは「犬小屋」って呼ばれてたそうです。でも、尊敬を込めたコードネーム、というより、うんざり、といった感じだったらしい。

てっぺんの装飾は、松かさと丸まった葉っぱ(クロケット)の組み合わせだそう。

設計当時、すでにこういうデザインは古めかしい感じになってしまっていたそうです。設計を手伝った生徒さんたちは流行りのデザインがやりたいのに、来る日も来る日も古臭いのをやらされる、またこれか、みたいな感じだったんでしょうか。内田祥三がレトロ趣味じゃなければ、今とはぜんぜん違う感じになってたかもしれない。

たしかに1920年代から1880年代を見たら、古っ、って思いますよね…。大真面目に80年代を復刻するようなもんですし。
いま80年代デザインが流行してますけど、そういうリバイバルブームでもなければやってられない感じなのはわかります。しかもゴシックでも新古典主義でもない新しいデザインが花開く1920年代。それはうずうずしそうです。わたしも1920年代には謎の憧れがあります。

広報センター(旧医学部附属病院夜間診療所) 1926年完成 岸田日出刀設計
てっきり守衛さんの詰所だとばかり思い込んでいました。
南側の、龍岡門から行くと見えます。
ちょっと変わった感じなのは、古すぎる内田ゴシックへのせめてもの抵抗かもしれないらしい。
元は大学附属病院の外来患者夜間診療所として建てられたそうです。


スクラッチタイルの合理性

建物の表面は、黄土色の芋目地のスクラッチタイルで覆われています。これは、
縦目地が直線で通る芋目地なら工事が比較的簡単!
表面に引っ掻き傷のような凹凸のあるスクラッチタイルなら色ムラがわかりにくい! 
という合理性のもとに採用されたそうです。
震災でほとんどの建物が使えなくなったあとの復興事業で、こだわってのんびりつくっている場合ではなかったのもあるかも。
(でも、玄関とか目立つところをピンポイントで凝ることで、急拵え感を出さないのはさすがな気がします)

近寄ってみると、たしかにイマジナリーレンガの貼り方(馬目地っていうらしい)ではないですね。

本郷キャンパスを歩いてみるとわかるんですが、とにかくひとつひとつの建物がでかい(表面積が広い)、その数も半端ない。これ全部、震災後に一気につくったのか…と思うとくらくらします(震災前に計画自体はあったらしいですが)。
震災を耐え抜いた旧前田家本郷邸が、それどころじゃなかったので放置されたのもわかります。

今回は図書館に用があったので、南側の龍岡門から入って北へ向かってみたのですが、法文2号館あたりで力尽き、安田講堂をチラ見して帰りました。法文1号館から北へは行けてません。コンドル先生像は北側の工学部のほうにあるので、今度行けたら拝んでこようと思っています。

ところで安田講堂が例外的に全面赤煉瓦なのは、これだけ関東大震災前の1921年に工事が始まり、震災後の1925年に完成したから。安田講堂だけ特別扱いだから、というわけではないようです(結果的に特別な感じになってしまったけど)。でも、震災後の混乱の中、赤煉瓦のタイルを調達できたんだろうかという疑問もあります。

東大っていうと、メディアは安田講堂と赤門しか映さないので、建物についてはなんとなく赤とか赤茶色のイメージがあるかもしれないんですが、大半の建物は黄みがかった茶色をしています。ちなみに、スクールカラーは淡青(ライトブルー)なので、だいたい補色の関係ですね。

安田講堂から正門方面を見た感じ。
本郷通りから構内方向を見る。柵もイギリスっぽくてかわいいです。


内田トラップ

わたしが観察した範囲だと、内田ゴシックの特徴は、
玄関:連続する半円アーチ/連続する尖頭アーチ/尖塔アーチ単品/犬小屋のどれか。たぶんまだあると思う。似ているものも細かいところに違いがある。
外壁:地からコーニスまで貫通の付柱(?バットレスなのかも)にミニ破風の装飾(コーニスの手前で止まってるのもあるかもしれない)
:上に庇、下に窓台があり、左右に地から連続する付柱より細い枠を持つ

地面からてっぺんまでつながっている縦のラインが、上に飛び出しています。
この状態がまさにゴシックなのだそう。
尖頭アーチの開口部、お城みたいでかわいいですよね。

とにかく垂直方向に上へ上へと伸びる線が、「ゴシック」の特徴なのだそうです。
前にあげた、コンドル設計の法文科大学を見ると、窓の上部も尖頭アーチトレーサリー(線条の分割枠)になっていて、いかにもゴシックの窓という感じですが、震災復興でさすがにそこまではやってらんなかったんでしょうね。
(計画書みたいなの見ると、窓は最初から凝らないで長方形だったぽいですが、窓の上下にすこし飛び出した枠があり、それ自体もゴシックの特徴らしいです)

法文2号館から文学部3号館方面へ抜けるアーケード(だと思う…)。
たしか中もリブ・ヴォールトになってた気がします。

デザインを揃えると統一感が出るんですが、今度は建物の見分けがつけにくいという問題が起きると思います…。同じデザインの建物が並ぶ団地で迷う感じ。
とくに連続する半円アーチの玄関は多いので、イメージだけで探そうとすると、迷います。写真の整理をしていても、どこの玄関だかわからないものがあります…。

総合図書館 1928年完成
関東大震災で焼失後、ロックフェラー財団の寄付を財源に再建されたもの。
2015年からの改修工事ののち、2020年にグランドオープン。
最近よく、中のほうがメディアで紹介されたりしてるなあと思ってたら、
改修工事が終わったからなんですね。
総合図書館は、玄関アーチの間にレリーフがあるので見分けがつきます。
医学部2号館 1936年完成
東大病院のアイコン的によく映される建物だと思います。
総合図書館周辺の建物の入口、だいたいこんな感じ。
総合図書館と一体になってる建物の別の側だったような気がします。

ちなみに、港区立郷土歴史館(旧公衆衛生院)の玄関も同じです。ここも内田ゴシックです。


本郷通り側、法学政治学系総合教育棟と福武ホールの間にある謎のアーチ。
休憩所みたいになってます。何かの遺構かなと思ってたら、最初から藤棚としてつくられたものらしい。
ここの資料、検索してもなかなか出てこないなか、このnoteの記事にようやく見つけました。
正門側から安田講堂方面を見た感じ。この感じで紹介されることが多いと思います。


内田ゴシック以外にもいろいろ

南側の龍岡門から入ると、内田ゴシックにきもーちデザインを揃えた感じの現代的なでかいビル(本部棟)の横を通り過ぎるのですが、このビル、丹下健三デザインです。

新しめのには興味がないのでスルーしていた…

古いものに興味がない丹下健三が空気読んで雰囲気を合わせてくれた、というだけでもすごいことなのかもしれない。どうかすると都庁みたいなのが建ってた可能性もある。それはそれで面白いですが、非難轟轟だっただろうな。安田講堂の真後ろに建ってる理学部1号館も建設当初からずっと言われてたから。

めちゃくちゃ空気を読むと、こんな感じになると思います。

文学部3号館 1987年完成 大谷幸夫設計
法文2号館のアーケードからチラ見えしてるのはこの建物。


駒場キャンパス

駒場キャンパスのほうはどうかというと、これも敷地の交換から始まるようです。
1935年、現在の農学部の位置(本郷の北側の弥生キャンパス)にあった第一高等学校(一高)と、駒場にあった東京帝国大学農学部との敷地交換の話がまとまりますが、このとき、「大学側は一高のために駒場に主要な建物を建造する」という感じのとりきめがあったそうです。
それでつくられたのが1号館や900番教室、101号館などです。本郷と同じく内田ゴシックです。1号館とか、安田講堂そっくりですよね。

1号館(旧一高本館) 1933年完成 登録有形文化財
安田講堂にそっくり。玄関のデザインで見分けがつきます。
正門から遠いとありがたみを感じたかもしれない。
安田講堂と違ってふつうに教室があるので、ここで授業を受けたり、入試がおこなわれたりもします。
1号館裏の中庭入り口のところに、一高の紋章がついてるそうです。

本郷そっくりなのは、敷地交換に反対の一高生をなだめるため、とかいうのをどこかで見かけました(何かやろうとすると反対が起きるのはもう伝統なのでわかる気がする)。
駒場寮から1号館などの教室がある建物へ通じる地下道があったらしいんですが、それも雨に濡れずに教室まで移動できるようにするから敷地交換して、っていう懐柔策らしい、という話もあります。

戦後、一高は東京大学(1947年「東京大学」に改称)に包摂されたので(たぶん一緒になった、くらいの意味か?言葉が難しいんですがよくわからないのでそのまま使います)、教養学部がこれらの建物を使うようになった、という感じの経緯のようです。
これで、なんで1号館と正門に一高の紋章があるのか、腑に落ちました。

101号館(旧一高特設高等科) 1935年完成
犬小屋玄関が特徴的です。こっちはトレーサリーみたいな装飾的な枠があってかわいい。
2階建てなので、玄関デザインとのバランスもよくて、そこもかわいいポイント。
旧制高校編入前の留学生達が学んだ施設なのだそうです。
中も凝ってます。散らかってるのは、駒場祭のときだったので。


900番教室と駒場博物館

900番教室駒場博物館は、1号館に対して対称になるように配置されています。
そっくりなのでぱっと見、区別がつかないけど、裏側のデザインは違うそうです。わたしも写真を見返していて、見事に間違えました。
正面上部の円の中の紋章のうち、900番教室は「柏」、駒場博物館は「橄欖(カンラン)」なのだそうです(一高の紋章に関係)。細かいところがおしゃれです。
900番教室では1969年に三島由紀夫と東大全共闘との討論会がおこなわれたそうです。今だったら動画配信で盛り上がるでしょうね。短刀とか持ち込んでいるのでいろいろ物騒ですが。

駒場博物館(旧一高図書館) 1935年完成
柱の方に「博物館」と書いてあるので判別ついたんですけど、
900番教室と見分けがつきにくいです。
こちらも開口部上部のアイアン装飾がかわいいです。
900番教室(旧一高講堂) 1938年完成
パイプオルガンがあって、演奏会なども開かれているそうです。


正門と護国紋

門扉には 柏と橄欖を組み合わせた紋章がデザインされています。これは一高の紋章です。

正門 1938年完成→2008年復元

柏(オーク)はローマ神話の軍神マルスの「武」、 橄欖(オリーブ)は女神ミネルヴァの「文」を意味するとか、中国語の橄欖はオリーブではない、とか諸説あって、意味ははっきりとはわからないみたいです。
この紋章は「護国紋章」と呼ばれているそうですが、一高の校旗を「護国旗」と呼ぶことに由来するんでしょうか。旗のほうには中央部に「國」の文字が入っています。

旧前田家本邸を見に行った時に寄ってみたんですが、いろいろ見逃しているので、今度詳しく見てこようと思います。博物館も行きそびれてるし。
実はここは正確には「駒場Ⅰキャンパス」で、前田邸の西側に「駒場Ⅱキャンパス」もあります。ここも内田ゴシックで統一されていて、1号館に似てるけどなんか違う建物(先端科学技術研究センター13号館)もあるので、パラレルワールドに迷い込んだ気分になります。

内田ゴシックの写真をまとめたかっただけなんですが、前田家との絡みもすっきりさせたいと思っていろいろ調べていったら、すっごい長くなりました。沼ですね。でもいろいろ謎がとけてすっきりしました。

こちらの講義動画で内田ゴシックの解説など聞けます。


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