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「結婚とは、契約?」 「相手の中で最優秀賞を取り続ける不断の努力を誓うこと」

 漱石の『こころ』を読んだのは、高校三年の現代文の時間が初めてではなかった。
そもそも高校の教科書に載っているのは、三部構成のラスト「下 先生と遺書」の部分に過ぎない。
三角関係、告白を躊躇う気持ち、Kの死、明治の精神に殉ずる。
たしかに国語の時間で何かを「学んでいる」感覚を強く残す章ではある。
しかし私が初めて『こころ』を読んだ高校一年の秋、心臓に杭を打たれたのは、たしか第二部の一節だった。

「世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました」

ここを読んでからKが亡くなるシーンに辿り着くまでの間に、すべてがいやになり、当時付き合っていた人と別れた。
話が飛躍しているよと笑ってくれる人がいたら安心する。私が多くの人に理解されてしまったら、私と同じ異常性を持つ人だらけの世間で生きていくことになってしまう。
一定以上の親密度で私と関わっているのに、私が何考えてんだか分かんなくて困っている人たち、本当に不気味でしょう。すみません。
いつもありがとうございます。

この一節を読んでから、誰かと付き合うたびに捨て身の自己開示と、急にくる恐れによる後退とを繰り返している。
ファーブルが昆虫を観察するように、シートンが動物を愛でるように、私自身は私の周りにいる人のことが大好きで。
ファーブルが昆虫になれないように、うまく同化できない悲しみを抱きしめながら、人に近寄っていく。観察して相手の心を開こうとするくせに、あるとき飽きて走り去る。飽きて、と言っているだけで、実際は飽きているのではない。
昆虫からの目線に耐えられなくなっているだけだ。大好きな相手の視界に入りたくない。
これ以上好かれなくていいから嫌われたくない。

「どうしてものときは頼っていいんだよ」
という善意の言葉は、
「万が一嫌われてでも頼りたいなら頼ってもいいんだよ」
という脅迫に感じる。そんな訳はないのに。
大変失礼な話だ。相手の度量を侮っている。

言いたいことなんか毎日大体似たようなことしかない。
「大好きなあなたの中で、毎日最優秀賞を取り続けます!だからそばにいて」
もしくは、
「今日は頑張れないかもしれないけど、それでも本当にそばにいてくれる?」
これをこねくり回して、隠してみたり、ロマンチックにしてみたり、ポップにしてみたりしているだけだ。

ゲロ吐くのを我慢するみたいに、喉の奥から迫り上がってくる言いたいことを
「それを本当に伝えてしまっていいの? 伝えて何かいいことあるの? 相手が喜ぶと思ってるの?」
と自問自答して我慢し続けてる状態だから、早くトイレにぶちまけるか、飲み込んでしまわないと。いつか限界が来て、相手にゲロをかけたら嫌われるでしょう。

いつか父親の上着に泣いて鼻水をつけたことがあったが、
「いいよ、どんどん鼻水のごって(ぬぐって)」
と方言で受け入れてくれた。
親に受容された記憶があるのに、どうしてこんなに不安定な子どものままなのか。

私は亡くなった母親に対して恨んでいることがいくつかあるのだが、

①必要なときにそばにいてくれなかった
②そばにいて私が母を必要としてるときですら抱きしめてくれなかった
③抱きしめて欲しいときに必ず殴った
④これを好きな人からされないためなら他人をコントロールしようとすることも罪と思わない自分が生産された
⑤それどころか、自分にも他人にも
「愛されたい人に愛されないのは他人をコントロールする努力が不足してるんだよ、自業自得じゃない?」
などと思うようになった

母親は隠しごとの多い人だったが、私に秘密が露呈する前に一抜けして居なくなってしまった。

誇張なしに人はすぐいなくなるし、死ぬし消えるし会えなくなる。
なのに、いまの私はいましか存在しないのに、いま相手にとって必要じゃないことが悲しい。
こんな傲慢が思いつくということは、それなりに自分が好きでたまらないのかもしれない。

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