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遠くにありて想うもの

 私は、山と川、そして人々が耕す田畑と、その間を縫うように家屋が点在する村で育った。大学入学を機にコンクリートに囲まれた生活を始めてから、もう30年以上にもなる。利便性は比べようもないくらい今のほうがいいが、故郷に戻ることはもうないだろうと思う理由の一つに「虫との闘い」がある。

 記憶の中では、「飛んで火に入る」習性のとおり、隙あらば家の中に入り込もうとする大・小・様々な虫たちとの闘いが夏の夜の風物詩だった。しかし今では、夏の間、嫌な羽音をたてる蚊や、降り注ぐように鳴き続ける蝉、そして自宅の中でまれに目にする「か細い」蜘蛛くらいしか意識することがない。虫に悩まされない生活など、どこかで自然環境に無理をさせているとわかってはいても、やはり快適なものは快適だ。

 ただ不思議なことに、眠っている間に見る夢の舞台は、故郷の家や田園風景であることが多い。しかも、なぜか人間関係だけはちゃんとアップデートされていて、故郷を離れてから出会った人たちでさえ、夢に出てくるときは私の故郷にいる。よく言うところの、「心の原風景」というやつだろうか。

 故郷。その時々の記憶はあるものの、今でも懐かしく思い出すのは収穫時期の稲田だ。よく実った穂先が風にそよぎ、優しい波を作り出していたかと思うと、あっという間に刈り取られ、青空の色に取って代わる。地面に落ちた稲屑が、太陽の光をうけてキラキラと空に舞い上がり、周囲の山々も飛び回るトンボの目も、周囲の大人たちの笑顔までも、全てを黄金一色に染めていく。記憶の中の香ばしいにおいは太陽か、それとも土だっただろうか。幼いながらも、大人たちの表情や振る舞いに「収穫の喜び」を見出していたのだろう。

 意識はしていないが、おそらく私たちは幼少のころから、ノンバーバルな情報を周囲から相当に受けて育っている。そして、自然ほど、私たちにとって未知の情報にあふれている対象はなく、五感を磨くにも、ちょうどよい素材になってくれていたのではないかと思う。

 虫は嫌いだったし、風が強い日は通学路にあった山桜の大木も怖かった。でも、悔しさで泣きじゃくった日に、目線より低い山々を染めていく息をのむような朝焼けや、冬の夜空を埋め尽くす星々の光にどれだけ心が洗われたことか。大きすぎる自然の隣で、ちっぽけなことなどどうでもいいと思えてしまえる環境に多感な時期までを過ごせたことは、今思えば、本当に幸運なことだったのだろう。

 あなたの「心の原風景」はどんなところだろうか? それこそが、私たちがいつまでも残したいと心から願うものであり、そしてどこまで長生きしたとしても、きっと最後まで寄り添い続けてくれる風景でもあると思う。(photo: Bene san)

原風景(げんふうけい)は、人の心の奥にある原初の風景。 懐かしさの感情を伴うことが多い。 また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。 個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある。

(出典 Weblio辞書)

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