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人生は登山のようだと思う。

赤子としてこの世に産み落とされた時には、やっとのことで息をして、気まぐれに欲しがる乳を栄養として、排泄物を所構わず外に出していた。最低限の生命活動以外の全てを他者に依存してなんとか生きていたしわしわの生命体が、眼で物を見て、耳で音を、鼻で匂いを感じて、口で言葉を話すようになる。自分と他者の区別がつくと、親や友達の名前を覚えて、社会性を徐々に身に付けていく。

教育や社会経験を通して能力を蓄積しながら、貯金や昇進・昇給というかたちで金銭的な蓄積も増やしていく。大きい山にはそれなりの苦労も伴うが、得られる経験や報酬も、妥協した時と比較すると充実したものになるだろう。ただし、苦労と言う名の精神的・肉体的負荷に耐えうる年齢のうちにやらなければ、ストレスの大きさで己の身を滅ぼす危険性もある。「若い時の苦労は買ってでもせよ」とはよく言ったものだ。

トレーニングをする際に、辛い厳しいメニューから比較的楽なメニューに変更することは容易いが、より厳しい内容をこなせるようになるにはそれ相応の苦労を覚悟しなければならない。楽なメニューにはいつでも変えられるが、一度変えたが最後今のこの過酷なメニューは二度と出来なくなる可能性がある。山を登っている間は、そんな己との闘いが繰り広げられる。

この先もこんな苦労が続くと思うとそれだけで気が滅入るし、「ここが自分の能力の限界だ」と努力することを諦めて早く山を降りてしまいたいと道半ばで何度も考える。これ以上の成長も収入も要らない、その代わり、己の未熟さを思い知るような経験も、多少の無理をして自分の能力以上のことを成し遂げようとする頑張りも免除される、そんな道を選んだ瞬間が、登山から下山へのターニングポイントになる。

下山となれば、登っていた頃より苦労は減るが、おんなじように、能力的にも収入的にも出来ることが徐々に減っていく。少しずつ、誰かの世話にならないと生きられなくなっていく。収入が減るのと同じだけ欲を減らし、出来ないことが増えた分だけ他者への感謝を厚くすることが出来れば、下山者としての生活にも困ることはないかもしれないが、その調整がなかなか難しい。

自身の向上を諦めるのが早すぎた人間のうちの何人かは、自分より高みを目指す人間の足元をすくうようになる。自分が山を降りた人間であることを認められず、そうする事でしか自身を高く保つことが出来ないからだ。山を登っていた過去の自分を忘れられない人間の中からは、偉そうに他人の世話に文句をつける人間も出てくる。そんな人間の人生を、一体誰が尊ぶだろうか。優秀な登山者であることは素晴らしいが、登る者に道を譲り、苦労を労わることの出来ない下山者は自ずと疎まれる。

そんな人間は忌避されて当然だ、と思い切って言ってしまいたいが、そんな私にも、これからの人生でそんな老人にならない保証はどこにもない。過去の自分を見失わずに進んでゆける程、人生は短くも平坦でもないのだろう。

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