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すぐに死にたくなるわたし

 自分の人生を客観的に見て、不幸だと思ったことはあまりない。大きな病気に苦しむこともなく、あたりまえのように両親がいて、ひもじい思いをするような貧しさや、妬まれるような富とも縁のない暮らしをしてきた。多くはないけれど気心の知れた友人にも恵まれて、それなりに恋愛というものも経験したと思う。人に自慢できる程の青春ではないけれど、コンプレックスになる程の経験の欠如もなく、いろんな思い出や失敗が、今の自分をそれなりに形成していると感じている。つらい思いをすることもあったけど、振り返ってみるとそれなりに乗り越えてきたなあと思える。だらしない性格のせいで、頑張ればもっと良くなるはずなのにと思うところもあるけれど、自分の人生にはそこそこ満足しているつもりだ。
 それなのに、少し気を抜くと私はすぐに「死にたい」と思ってしまう。口には出さないし、実際に行動に移したことは一度もない。それでも、私にとっての「死にたい」は、喜びや悲しみといった感情と同じくらい自然に、私の心のなかに存在している。
 口にしてしまえば、聞いた人を驚かせ、困らせてしまうだろう。私のことを大切にしてくれる人たちにそんな思いをさせることは、私自身望んではいない。それに、自分が本当に死んでしまったら、悲しむ人がそれなりにいることも、ちゃんと頭ではわかっているのだ。実際に行動に移すにしても、確実に死ぬことができる方法を、私はまだ知らない。万が一、うまくいかなくて頭や身体が今よりも不自由な状態で生きることになったら、大切な人たちを悲しませるばかりでなく、多大なる面倒とお金をかけることになってしまう。残された人生はきっと、自殺の危険のある人として扱われ、死ねないように監視や管理をされて生かされるのかもしれない。そんな想像をするとゾッとするし、このまま生きている方がよっぽどマシだと思う。それだけの理性はちゃんとあって、いつだって理性は感情に勝ってきた。
 こんなに大切に思える人たちがいて、自分は大切にされているとちゃんと自覚しているのに、どうしてこの感情は消えないのだろう。気まぐれな感情とは裏腹に、頭では常に同じことを考えている。そんな理性に責められて、自己嫌悪のスパイラルから抜け出せなくなった時期もあった。自分がどんどん嫌になって、自分を大切に思えなくなってしまっていた。もはや自分のためではなくて、他人を悲しませないために生存しているようだった。生活のために働いているはずなのに、「仕事を休まずにいられるだけの食事と睡眠」が私の心と身体を支えていた。そんな自分をちゃんと俯瞰で見て分かっていても、感情を救うにはどうしたらいいかだけは、いつまで経ってもよく分からなかった。感情に支配される時間を減らすために、努めて走ったり眠ったりしていた。身体を動かしている時間は、精神よりも肉体の訴えが優先されたし、眠ってしまえば生きているか死んでいるかなんてどうでもよくなった。よく、永遠に眠れたらいいのにと思っていた。
 何がそんなに悲しくて死にたいのかと、きっとみんな不思議だろうと思う。そもそも、私の感情がそれをきちんと言語化できていたのなら、私の理性はそれをとっくに解決しているはずなのである。悲しいことがあって死にたくなることもあれば、幸せの真っ只中でも死にたくなってしまうのだから、正直訳がわからない。ついさっきまで熱中してやっていたゲームが、ふいにどうでも良く思えてきて、ぷつんと電源を切るーーーそんな気まぐれで衝動的に、生への執着の薄れ、あるいは喪失に襲われる。窓の外の景色を眺めている時に、怒りも悲しみもない穏やかな気持ちが心地よくて、このまま自分の存在が薄くなっていって、空に消えていくように死ねたらなあ、と安らかに願うことだってある。夜中にこわい夢をみて汗だくで目が覚めると、必死に生きようと何かから逃れていた自分の無意識に、どこか安心してしまう自分がいる。
 そんな感情と共に四半世紀程生きてみると、案外、死にたいままでも生きていけるものなのだなあ、と妙な慣れのようなものが出てくる。楽な道を選んで歩けば、死にたくなるような思いをしないで生きてゆく道もありそうだ、と感覚的に分かり始めていた。ただ、実際に同じことばかりを繰り返して、何事も学ばずに歳だけを取っていく人の姿を見ていると、なんだか醜く思えてますます死にたくなってしまった。醜く老いてゆくだけの自分の生存にこだわることよりも、他者の幸福や全体への貢献という、形のないものに価値を見出したい。自分の人生には意味があったと思いたい。自分の人生にそんな期待を抱きながらも、無意味に生きることへの不安と恐怖が付きまとう。それに、どこまで続くのかも分からない人生を、向上心をもって頑張り続ける自信もない。終わりがあれば、そこまでの辛抱と思って頑張れるのになあと思う。
 私にとっての死とは、人生を頑張るためのゴールテープなのだろう。それは、終わりの見えない人生の不安からの救済とも言える。安らかな死は憧れであり、人生の目標なのだ。そう捉えると、事あるごとに死にたくなるのも合点がいく。死を想うことは、私が生きている限り、必要なことなのだろう。この生きる苦しみにはいつか死という終わりがあって、今は安らかに逝くための生き方を選ぶことのできる時間なのだから。自殺してこの世を去った多くの人は、こんな気持ちだったのだろうか。死人に口はないけれど、こうして死にたいままで生きていればいつか、共感してくれる生存者に会えるかもしれない。

 

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