見出し画像

対他人用の自分のはなし。

最近バイトを始めました。できるだけ融通が利く仕事で、自分が成長できる場所を選びました。始まって数週間、だんだん仕事に慣れてきて余裕が出てきたので自分の持ち場だけでなく周りの仕事にも気を配れるようになり、自分の成長をひしひしと感じています。ここまでは全く問題ないのですが、一つ悩んでいることができました。それは、「対他人用の自分」と「素の自分」をはっきり分けていることによる弊害です。

さて今回は「対他人用の自分」について話していきたいと思います。

電話に出るとき、声が上ずった経験は皆さんはおありでしょうか。私は幼稚園生の頃から家にかかってきた電話に対応するときは声が上ずってしまう癖がついてしまいました。これは私なりに考えたのですが、恐らく当時の私はこの上ずった高い声を出すことによって「親しみやすさ」「敵ではないという証明」「自分は相手と平和なやり取りを望んでいること」などを表現しようとしていたのだと思います。そうした意志を伝えるための手段として声を高くすることを覚えた私は、それが癖になり、日常生活以外で起こる会話・発表の際には声が高くなってしまうようになりました。先生と話すときは友達と話すときと違って高く穏やかな声を出して「従順で」「真面目で」「気に入られやすい」自分で対応するようにしていました。これを続けていると、クラスメイトの男子からは

「なんで先生と話すときばっかりそんな高い声出すんだよ!ぶりっ子じゃん!」

と言われ、大変衝撃を受けます。なぜ?私の認識では「ぶりっこ=男性から性的に興味を持たれるためにかわいらしいしぐさをする女の子」でしたから、そのような目的でやっていなかった自分は非常に驚きました。確かに好きな人に対して可愛く思ってほしいからいつもよりかわいらしく動いてみようとかは思ったことがありましたが、私が声を高くする(高くなる)のは、言わば「対他人用の自分」、つまり「敵意がないことを示し、友好な関係を築こうとしていることを表現している自分」を演じているからであったのです。しかしこの「対他人用の自分」というのを持ち、自分を相手に良く見せようとする人は私の周りにはあまりいないらしく、全然理解されないままで中学生になりました。それに伴い小学生の頃に比べて大勢の人の前に出て話す機会が増えてしまい、「対他人用の自分」で過ごす時間も長くなっていきます。

そもそも私の「素の自分」は、「対他人用の自分」とは異なり「乱暴で」「可愛げがなく」「根暗で」「不快な印象を与える」「低い声」でありましたから、そういった自分を隠して人と関わることが周りとうまく溶け込む手段として最適であろうと考えていました。というか今もそうです。「対他人用の自分」はウケがいいし初めてあった人は大体私を

「いい子だった」「感じがよくてできる子だと思った」

と評価してくれます。ありがたい話です。そうした実績を持った「対他人用の自分」で中学生の頃に発表をしていると、クラスで笑い声が聞こえました。何だろう、私が作ったスライドが変なのか?何かミスったか?私は大変に焦りました。私はみっともないことと自分が周りに低評価をもらうことを極端に恐れていましたので。自分を「対他人用の自分」でがちがちに固めて一切の低評価の隙を与えないようにしていたといって過言ではなかったのですが、どうやらその「対他人用の自分」がクラスの笑いを誘ったようなのです。

「あんなのいつものあんたじゃなくて笑った。誰の真似してるの?アニメみたいな声出してどうしたの。」

と笑って言われ、私は困惑します。馬鹿にしないでほしかった。私が誰にでも親しんでもらえるようにたくさん頑張って考えた「対他人用の自分」ですら周りは笑いものにするんだな、と深く悲しみました。そうして発表が大好きだった私はそれ以来前に出て何か話す機会を避けるようになります。それでもやはりクラスメイト以外と、つまり先輩や先生と話すときには「対他人用の自分」は大変活躍してくれました。何なんですかね、年上と話すときは使えるんですかねこれ。一種のゴマすりみたいなものなんでしょうか。

それから時が過ぎて大学生になって、今です。今日バイト中にバイト先の先輩に、

「あー、正直めっちゃそれ困るわ、なんか頭いい子がやってる天然詐欺みたいなの、俺苦手。ここの男性たちは一部を除いて女性に興味ないし、女性と映画に行くなら男子とゲーセン行くような人たちしかいないから、それやめていいよ」

なんて言われました。絶句しました。私が「高い声で」「テンション高めに」「いつも笑顔で」「穏やかに話す」のは、それが相手に敵意を向けていないことの証明であることは先ほどお話しした限りです。ですから、「感じの良い子」であろうとしていただけなのに、いつの間にか「男性に気に入られたいきゃぴきゃぴ女子」のように思われていたのです。衝撃すぎました。いや、違うそうじゃない。と説明しようにも、多分聞いちゃいないと思ってしまいました。

なぜならそういう風に一度写ってしまったものは、いくら弁解しようにもバイアス通りの見方しかされないだろうことに気が付いたからです。

それは私も同じだから、一度ついた印象は中々拭われないから。「そうでしたか、私も気に入られようと思って好きでやってるわけじゃないんですけどね。こうしていればウケがいいから、こういう低くてテンションの低い私はウケが悪いから。そうしているだけで。」小さな声でこう言って抵抗するしかできませんでした。悔しい。

私が作ってきた「対他人用の自分」は何だったのでしょうか。小学生の頃に、これは悪意でもなんでもなく、私の高い方の声を可愛いねと言ってくれる人がいました。中学生の頃に単なるクラスメイトだと思っていた男子から、あなたの地声はすごくいい声だと思う、声優さんみたいな少年みたいな声で、俺はすごく好きな声、と言ってもらいました。私の地声は少し低くて、例えるならHUNTER×HUNTERのキルアくんのような声をしています。その声を評価してくれる人は確かにいました。また、高くなった声は友達曰く俺ガイルの一色いろはちゃんのような声をしているらしいです。嬉しい。そんな評価を受けている私の声ですが、この声を文字通り適材適所に利用していれば褒められた通りウケがよさそうだしまあいいんじゃないかと思い、現状使い分けていました。電話対応は相変わらず「対他人用の自分」、仲のいい子と話すときやリラックスしていてもいいような場面では「素の自分」、バイトでお客様とお話しするとき、先生や先輩と話すときは「対他人用の自分」。中には私が男性として居たい場面では「素の自分」を出すようにもなりました。なぜなら「素の自分」はどちらかというとかわいらしさがなくぶっきらぼうでありながら、少年のようでありますので。自分で言うのもどうなんだろうと思いますが、私は間違いなくお兄ちゃんの影響を受けて男子気質に育ってきていて、女性らしさは少女漫画でしか履修していないので女性らしいふるまいが下手です。

親しみやすさを求めた「対他人用の自分」はそもそもいけなかったのか?自分をある意味で偽って「対他人用の自分」を作って人と接するのがいけないのか?

自問は後を絶ちません。私がいつも「素の自分」でいないのはいけないことでしょうか。「人によって態度を変える」ことは何が問題なのでしょうか。もっと言えば、男性に媚を売っているととらえられないためには「素の自分」を出すしか方法はないのでしょうか。

何のために「対他人用の自分」を出しているのか、もう一度改めてまとめてみます。ー「親しみやすさ」「敵ではないという証明」「自分は相手と平和なやり取りを望んでいること」などを表現しようとしていたー「従順で」「真面目で」「気に入られやすい」自分で対応するー「敵意がないことを示し、友好な関係を築こうとしていることを表現している自分」ー素の自分を隠して人と関わることが周りとうまく溶け込む手段として最適であろうー私が誰にでも親しんでもらえるようにたくさん頑張って考えた「対他人用の自分」ー。そのどれもが、男性に気に入られるために媚を売る目的には該当していません。ですから、今回のように先輩に媚を売っていると勘違いされたり、小学生の頃にクラスメイトの男子から先生に媚を売っているように勘違いされたりすると大変に驚いてしまい、それと同時にそういう風に自分が周りに映っているのだと感じられて悲しくなります。

今回はそんな悲しいことがきっかけで書いたエッセイでした。これからも私は穏やかな話し方を意識的にしますし、素の自分でいるときよりは笑顔を心がけますし、親しみやすい話し方を心がけていきます。それが適切であろうと考える場所ではそうします。男性相手にしても女性相手にしても、それが適切であればそうします。これは意地を張った抵抗ではなく、私が私の信念にしている「親しみやすさ」が必要であると考えるからです。そしてこの態度が、いつか報われるときが来ますように。最後に、素の自分のことは大好きです。殺すつもりはありません。私がのびのびと生きて、学んで、成長してきた中で形成された素の自分の性格は、それはそれで好きだからです。それがどうにも世渡り下手だから、今日も私は二面性を持つのです。どちらの私も大切な私です。


今回の見出し画像はみんなのフォトギャラリーからmichicusa さんのお写真をお借りしました。写真の雰囲気が今回の話題を深めてくれるような気がして選ばせていただきました。ありがとうございます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?