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小さな、小さな八百屋さん

 「いらっしゃい、いらっしゃい!」

 バス通りから一本入った道にある八百屋さん。従業員を使うほどの大きな八百屋さん。年配のご夫婦が店長。当時、買い物に行くと「これひとつ持っていきなよ」と元気な声で奥さんがお店の野菜や果物をそっと買い物袋に入れてくれていた。それはどのお客に対してもそうだった。

 ご夫婦の人柄でそのお店はいつも人が溢れていた。働き者のご夫婦で、休業日はなかった。いつも笑顔で元気な声の奥さんは常に店の中を歩き回っていた。「お店の休みの日はないのですか?」と聞くと、「なに言ってるの、お店を休んだら私の体がおかしくなっちゃうよ」と。それほど働くことが楽しく、お客さんとの会話が嬉しいようだった。

 繁盛していた八百屋さんも、大型スーパーがバス停近くにできると、一気に八百屋さんの客足が減ってきた。店舗を借りての営業だけに、常連客も心配するほどだった。

 ある日、シャッターが閉められ、そのシャッターに「しばらくお休みします」と書かれた貼り紙が一枚。

 体を壊したのだろうか、やはり経営が苦しくなったのだろうか。「立地条件もよかったので店舗代だけでも大変だろうね」など常連客の間ではいろいろな話がされた。

 大型スーパーに人が流れた。いくつもあるレジに人が並び、セルフレジも設置され、明るく広々とした店内は、多くの商品が整頓されていた。その前を、買い物用のワゴンを押して、一方向に人が歩いていく。駐車場も広く、大型スーパーで全て必要なものを買うことができるようになった。

 でも、スーパーの従業員との会話はなかった。必要な品物がどこにあるのかわからないときに尋ねるだけだった。


 しばらくして、あの夫婦がお店を始めたと聞いた。少し離れた場所。自宅前の庭の一角に小さな店舗を開いた。
 2〜3畳ほどのそれはそれはとても小さな店だった。お客が2人も入れば店内はいっぱい。それでも、店内にはいろいろなお惣菜や果物が並べられていた。野菜はあふれるように店先に出ていた。

 たった2〜3畳の店。入口から2メートル先に見える奥の作業場に旦那さんの姿が見えた。旦那さんは、椅子に座り、そこでお寿司を握っていた。声をかけると脳梗塞で倒れ、それから片方の手が不自由になったという。それでも夫婦で仕事を楽しみたくて、小さい店でもいいからと夫婦だけでお店を開いたという。

 回転椅子に座っている旦那さんは、振り向けば冷蔵庫があり、椅子をずらせば水道もある。その場にいながらすべて手の届く場所に必要なものがあった。
 旦那さんと会話をしながらお寿司を握ってもらった。「なにを握る?」と聞かれるほど、こちらの注文でお寿司を握ってくれる。エビ、マグロ、いか、卵・・・、など何種類かを注文すると、さっと上半身を動かし、ネタを冷蔵庫から取り出し、手際よくお寿司を握ってくれた。

 その間に、奥さんと会話をしていたが、本当に楽しそうに見えた。「こんなに小さい店でも、みんな来てくれてねぇ」と嬉しそうに話す。帰り際に「これ、ひとつ持っていきなよ」と、以前のように店にある商品を袋に入れて手渡してくれた。
 「二人でやってるから、惣菜などは毎日同じものは出せなくてね。明日には違うものが並ぶよ」。本当に楽しそうだ。

 ご夫婦はすでに70歳を超えている。活き活きと人生を楽しんでいる姿が伝わってくる。

 「この店は私の生きがいだよ」と笑いながら話す奥さんの顔のシワが人生の楽しみの年輪のように感じた。

 小さな小さな八百屋さん。駐車場はご夫婦の自宅の庭先。それでも夕方には品切れ、売り切れになるという。

ここでしか味わえない会話がある。いつまでも元気でいて欲しい。

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