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生きづらさと生きていく

「生きづらさ」。
最近、そんな言葉を見聞する機会が増えてきた。
それは、今の世の中がそういった人たちで溢れてきたからなのか、それとも私自身が生きづらさを感じていてそういった情報に敏感になってきたからなのか。
いずれにせよ、少なからず昔からそういった「生きづらさ」は確かに存在していたのだろうけれど、今の世の中になってそういった声が少しずつ尊重されるようになってきたことは間違いないのだろう。

私もその一人で、カタチは違えど世の中にもそういった人たちがいるだろうから、今日は私が感じる生きづらさと、最近の私が実践している生きづらさとの向き合い方を共有したいなと思う。


私が生きづらさを感じる瞬間

私が生きづらさを感じる瞬間ってどんな時だろう?

①周りの誰かと自分を比べているとき

私はよく、周りの誰かと自分を比べてしまう。
「(スタートが同じなのに、あるいは自分の方が経験が上なのに)あの人に成績を越された。もしくは、このままだと越されそう。」とか、「なんか他の人と比べて自分に対する待遇が冷たい気がする。」とか。
そうやって自分と誰かを比べては、「ダメな自分」に絶望して心が苦しくなっていく。

何かの本で読んだことがある。
「資本主義の社会において競争は社会を発展させていくための必要条件であり、競争をすることで人の役割が最適化されていく。」

確かにそう言われてみると、競争は必要なのだろう。
むしろ、競争をすることによって人は努力し、今よりもより良い明日を創り出そうとするのかも知れない。
私の今までを振り返ってみても、例えば勉強であったり、スポーツであったり、就職試験であったりなどで、競争をすることによって自分の目標を叶えてきたことは間違いない。

ここで気付いたのは、競争には2種類ある、ということ。
それは、「健全な競争」と「不健全な競争」。「ポジティブな競争」と「ネガティブな競争」と言い換えてもいいかも知れない。

「健全な競争」とは、競争するそもそもの相手が自分自身にあるということ。
例えば、それによって自分自身のスキルや能力が向上したり、自分の能力を上げることで自分が誰かの役に立ったり。
自分の成長の過程で競争が生まれ、その結果として傍から見たらまるで周りと競争をしているかのように見えるだけのことであって。
競争をしているのは、周りではなく実は自分自身であるという状態。
結果として、自分自身の成長の実感や周りが喜んでくれたことへの充実感や達成感につながるので、自分にとっても周りにとっても幸せな状態。

一方で「不健全な競争」とは、他者と敵対するように競い合うこと。
相手への嫉妬や羨望、相手の足を引っ張ってでも自分が優位に立ちたいという状態。「何のため?」という目的意識がなくて、競争そのものが目的化してしまっている状態。
こういう状況だと、常に他者との相対的な自分の位置関係が気になってしまうので、移りゆくその状況に一喜一憂して心を擦り減らしてしまう。
そればかりではなく、場合によっては相手との人間関係も破壊してしまう。
これだと、自分も周りも誰も幸せになることは出来ない。むしろ、不幸にしてしまう。

だから、自分を周りの誰かと比べるのではなく、「自分はどうなりたいのか?」「何のためにやるのか?」という目的意識を持って、昨日よりも今日、今日よりも明日、自分と周りがもっと幸せになるために健全な競争をすることが大切なんだと思う。
だから私は、これを「競争」ではなくて「共創」と呼ぶように意識している。

②周りの目を気にしているとき

私は昔から周りの目を気にして生きてきたように思う。
学生時代の長い間、ずっといじめられてきたという過去のトラウマも関係しているのかも知れないけど、周りから叩かれないように、陰口を言われないように、仲間外れにされないように、細心の注意を払って生きてきた。
だから、自分が納得がいかないことや自分と周りの意見が違うことであっても、周りからの見られ方を意識してなるべく角が立たないように妥協してきた。
みんなの前で失敗をして陰でコソコソ言われないように、失敗しない、なるべく安全な道を選んできた。

でも、そうやっているうちに、自分が生きている意味が分からなくなってきた。生きていて楽しいと思えなくなってきた。
そうやって、まるでカメレオンのように周りの空気に合わせて自分の色をコロコロと変えているうちに、本当の自分の色が分からなくなってしまった。

その頃の私は(今もまだ、そういうところはあるのだけれど)、よく周りから「当たり障りのない人間」とか「嫌なところが全然ない人」などと言われていて、当時の私はそのことに安心感を感じていたのだけれど、よく考えたらそれって「いてもいなくても変わらない人」ってことだよな、と思う。
それって本当は、とても寂しいことなんじゃないかなと思う。

そして、最近気付いた。
実は周りの人たちって、私が気にしているほど私のことを気にしていないってこと。
勿論、私が誰かに不義理を働いたり、嫌な思いをさせてしまったら、そのことをずっと相手に根に持たれるだろうし、もしかしたら相手も私に報復してくるかも知れない。
でも、ただ自分が失敗しただけだとか、周りから少し劣るようなことがあったとしても、周りはそんなに気にしていないと思う。
なぜなら、私自身、周りの人の失敗や欠点をそんなに気にしていないからだ。
結局、自分のことを一番気にしているのって、自分自身なんだと思う。
だから、こんなふうに自分のことを周りが気にしている以上に過剰に気にしてしまうのだろう。

だから、周りの目を気にしすぎることは無意味だと、最近思うようになった。
相手に嫌な思いをさせない限りは、相手は自分のことをそんなに気にしていない。
だから、自分の心の声に耳を傾けて、もう少しわがままに生きてみようと。

③夢や目標がないとき

私は高校を卒業して陸上自衛隊に入隊した。
私にとって自衛隊に入ることは中学生時代からの夢だった。
日本にはアンチ自衛隊の人も少なからずいるのは知っているけれど、2007年の新潟県中越沖地震や2011年の東日本大震災で自衛隊の活躍を見て、さらには国防という崇高な任務のために日々厳しい訓練に励んでいることを知った私は、中学での職場体験を機に「特にやりたいことがないのなら、世の中のために役に立つ仕事がしたい」と思って自衛官になることを志した。
高校卒業後、憧れの自衛隊に入隊した私は、厳しい人間関係や訓練の中でも毎日がとても充実していたし、自分の仕事に誇りを持っていた。
さらには、そんな自衛隊生活の中でも、その後のキャリアパスとして新しい夢や目標が出来たのでどんどん夢中になっていた。
私にとって自衛隊生活は、総括してとても楽しいものだった。(勿論、ミクロな視点で見たら厳しいことだらけなのだけど。)

そんな厳しい自衛隊生活を総括して「楽しい」と言えるのは、私自身がそれに夢中になっていたからなのだと、今になって思う。
もし自分が新卒で入った会社やその仕事が、そんなに好きでもなく適当に選んだものだったら、あんなに厳しい毎日にはとても耐えられなかっただろう。
事実、その厳しさに耐えられずに辞めていった人たちは大勢いる。
そして何よりも私自身、私的な事情があって自衛隊を辞めざるを得なくなった後、色々な仕事に就いたもののどれも長続きしなかった。
結局それは、夢や目標もなく仕事をしていた為に、周りとの人間関係や人の目が気になったり、結果が出ない自分に対する劣等感から、自分の居場所を感じられなくなってしまい、辞めてしまったものばかりだ。

今の私は、また少しだけやりたいことが見つかった気がしている。
というか、意識して楽しいことやワクワクすることに時間を集中させるようにしている。
まだまだ生きづらさを感じることはあるけれど。
少しずつ自分に合った生き方に近づいている気がしている。

生きづらさと向き合うことの大切さ

最近になって気付いたことがある。
それは、生きづらさと向き合うことの大切さ、に。
前述した『私が生きづらさを感じる瞬間』は、私自身が感じる生きづらさだ。
人によって感じる生きづらさは、それぞれだろう。
しかし共通して言えることは、それがどんな生きづらさであれ、きちんと向き合ってあげることだと思っている。

今までの私は、何か心に引っかかるようなものや、モヤモヤするような気持に対して、それを「生きづらさ」として認識せず、目を背けてきた。
それは、生きづらさから目を背けることで、「自分は生きづらくないんだ。」と生きづらさを感じないように自分なりに頑張っていたのだ。
生きづらさと向き合うこと、自分が今生きづらいということを認めたくなかった。認めないことで自分が傷付かないように、必死に自己防衛していたのだ。

でも、それでは生きづらさはなくならなかった。
だってそれは、一時的に「生きづらさ」から目を背けているだけだから。
そこに確かに「生きづらさ」が存在しているのに。

そこで、「生きづらさ」ときちんと向き合うことにしてみた。
心に何かの引っかかりを感じたら、まずはその正体が何のかを落ち着いた環境でじっくりと考えてみる。
そしてノートに書き出してみる。(いわゆる、言語化する)
そして、自分はこの時、こういう感情だったんだ、とそれをそのまま認めてあげる。決してここで、自己否定したり落ち込んだりせずに、そう感じた自分をありのままに認めてあげることが大切。
そして、今のこの状況から自分がより生きやすくなるために変えることが出来るものを思いつくままに書き出してみる。
その中から、今の自分にとって最もスモールステップで出来るものから実際にやってみる。決してそれですべてを解決できなくてもいいし、その仮説が間違っていてもいい。違ったらまた別の方法で方向修正すればいいだけの話だ。

そうやって、まずは自分が感じている生きづらさをそのまま認めてあげて向き合ってあげることで、自分に優しくなれる。
自分に優しくなれれば、心にも余裕が生まれてくる。
そうして自分の心を労わってあげるだけでもいいし、もう少し余裕があるのなら、そこからさらに自分が生きやすくなるための方法を考えてみてもいい。
その行為と積み重ねが、きっと少しずつあなたを生きやすくしてくれると思うから。

これからも、生きづらさと生きていこう。

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