見出し画像

定期的な草むしりでしか網目に光は通らない。

秋の間も、冬の間も、春の間も、つまり3つの季節をまたいで見放されていた庭の草むしりを昨日した。いろんな野花が咲いていたので、それもまた趣があっていいかな、なんて適当なことを思っていたけれど、ありのままの我が家に呼んだ友人の表情を見て、「私、このままだとマジでダメだ」と思い、自分の中のありったけのやる気を総動員して庭に集中した。

楽天で購入した草刈り機は以前一度使って、何も役に立たないことを知ったので、軍手をしてとにかく根元から抜きまくった。日に当たってよく育った草はスーっと気持ちよく抜ける。すくすく育つと根に持つことはないんだなぁ、なんて思った。そして日陰でジメッと地を這うように、育つというよりも生息している草は、引っ張ってもスーっと抜けることはなく、しぶとく地面に張り付いている。血脈のように、網のように、広範囲に張り付いている。この網を破るかのように、ベリっという効果音が適当な感じで、草をむしり続ける。生きているはずの草なのに生ゴミのような臭いが鼻につく。

私の心の奥にも、いつ頃から続いているのかわからない、しぶとい何かが広範囲に張り付くように広がっている。それが親や先祖から受け継いだネガティブな何かかもしれないし、人類の集合意識的な何かかもしれないし、私の魂の歴史から引き継いだ何かかもしれないし、それらが何にせよ、私の心の奥で網目のように広がっているのだと思う。網目の隙間から光が見えることもあれば、調子が悪いとその網目は詰まって光が通らない。そこにどんどん不要なものが溜まっていく。結局、定期的な草むしりでしか、網目には光は通らないんだなと思った。草の根が無くなることはないんだから。

定期的な草むしりは、この庭を、この家を愛していないと続かないな、とも思った。「どうせ自分の家じゃないし」という賃貸特有の思いが常に頭にあると、この家にお金も時間も愛情もかける気がしない。でも私の人生は実家にいた時以外はずっと賃貸だ。ということは、私は人生の大半、私の居場所に愛情をかけたことがない。これって、自分自身にも結局のところ愛情をかけていないということなんじゃないか。そう思うと、急に胸が苦しくなる。

「いつか別の場所に引っ越す」という足元がフワフワした日常は、山ほどのパンダ印のダンボールと適当に服が詰め込まれたクリアケースとの共存。インテリアという言葉からかけ離れた空間で、「いつかの別の場所」で使うかもしれないという希望と期待が詰め込まれたダンボールたちは、いつか解放されることを待っているのだろうか。あー、こんなツマラナイことをゴチャゴチャ言ってたって何も変わらない。もうやめよう。希望も期待もさっさと捨てて、自分自身を解放しよう。ただ片付ければいいのだ。

草むしりを頑張る私のために、夫は外で焼肉をしようと準備をしてくれた。珍しく米まで炊いて、何もかもを用意してくれた。すべてを美味しく頂いて、焼肉後の台所のシンクを覗いたら、10センチほどのネギの白い部分が落ちていた。関西人特有のネギは青い部分しか食べられないの思い込みの結果だろうかと思った。注意でもなく、命令でもなく、ただ確認を装って夫に聞いてみた。「もしかしてネギの白い部分は食べられないと思ってる?関西人はそう思っている人が多いってテレビで見たことあるんだけど。」そう言うと、「白い部分って根っこやから食べられんのやろ?」という夫の返事。「白い部分は根っこじゃないし食べられるから大丈夫やで。」と伝えておいた。白い部分だらけのネギは一体どう定義するんだろうかと静かな疑問が生まれた。思い込みで日常は成り立っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?