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「被害者がいる犯罪」の加害者が出演した作品の公開について思うこと

※2022年6月追記
 2019年当時に精一杯考えて書いたつもりの文章だが、映画監督が自身の現場を利用した行った性暴力の報道が続き、お蔵入り等の致命的な制裁がない限り業界は変わらないのではないかとも思うようになっている。正直答えが出ない。いずれにせよ被害者の意思が一番尊重されるべきだと思うのは変わらない。


新井浩文被告の判決が出た。俳優としての彼について思うことは山程ある。「青い春」痛いくらい鮮やかな青と黒、そしてミッシェル・ガン・エレファントの「ドロップ」。「ジョゼと虎と魚たち」今でも一番好きな恋愛映画だ。「ぐるりのこと。」劇場で3回観た。2000年代、2010年代、日本映画に憧れたことがある人は皆解ってくれるだろう。好き、嫌いを超えていつもどこかに彼が映っていたのだ。

 けれども、私がこの文章で「彼の出演作をお蔵入りにするべきではない」と書くのは、その芸術的価値においてではない。
 インターネットでは、俳優が犯罪を犯すたびに「被害者がいる犯罪だから」「いない犯罪だから」という論がかわされる。でも私は「被害者がいる犯罪だからこそ」劇場公開も、ソフト化も行われるべきだと考えている。
 観たくない人が目にしないで済むようにテロップや注意書きは必要だし、TV放送はだめだ。それでも作品を葬るべきではない。
 私がそう考える一番の理由は、「今のやり方では、共演者やスタッフが被害に合った場合に『訴える』という選択肢が奪われていると思うから」だ。

 内閣府が2014年度に行った調査によると、「異性に無理やり性交された経験がある」と答えた女性のうち、顔見知りからという人が約75%だという。翻って、まれに表沙汰になる芸能界の犯罪の場合はどうだろう。被害者と加害者に面識が無い場合や、被害者が未成年で業界人としてのキャリアが短い場合ばかりだ。表に出ていない人たちは清廉潔白か?そんな訳無いだろう。

 現状、性被害を訴えるハードルはとてつもなく高い。思い出したくないことを思い出し、心ないことを言われることもある。相手が芸能人なら尚更だろう。想像したくもない。
 それでも、何をかなぐり捨てても戦いたいと思ったとき。自分はどうなってもいいから戦いたいと思ったとき。今の慣習で戦えるだろうか。声を上げたら、自分のこれまでのキャリアが、仲間のキャリアが、すべてお蔵入りになると分かっていて、それでも戦おうと思える人がいるだろうか。そして、関係者誰もがそれを応援できるだろうか。無理だよ。私には、現在の「犯罪者が出たら全員連帯責任、お蔵入り」の慣習は潔癖の顔をした口封じに思える。

 こんな全然フォロワーがいないアカウントで主張して、どれくらいの人が読んでくれるのかは分からない。でも似た意見を全然見ない気がして、書かずにいられなかった。
 私の愛する日本映画が、敬愛するすべての作り手たちの尊厳を守りながら作られますように。泣き寝入りする暴力の被害者が、男女問わず一人でも減りますように。そう願う。

細く長く続けて、いつか作品をまとめられたらいいなと思っています。 応援していただけたら嬉しいです。