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心に残る私のごはん

人生で心に残るごはんと言えば、小学3年生の時に家族みんなで夕餐に食べた母のシソかつだ。薄切り豚肉2枚の間に1枚のシソを挟み、あとはトンカツと同じ要領で衣をつける。普通のトンカツより、少しさっぱりとした味わいの揚げ物である。

その日は夏休みだった。日中は家族5人と父方の祖父というメンバーで、丹沢までドライブに出かけていた。見た目が布袋様にそっくりで、いつも黒目が見えないほど和かな笑顔を浮かべていた祖父は、その数年前に脳出血で倒れて以来、杖なしでは歩行が困難になっていた。丹沢ではちょっとした石段でも人の何倍も時間をかけてゆっくり歩き、すぐに疲れて休憩を入れる。一方私は祖父の横を素早く通り過ぎて階段を駆け上り、てっぺんに着いた瞬間にしたり顔で石段を見下ろした。振り返ればずっと下の方でニコニコ笑いながら杖をつき、こちらを見上げて休んでいる祖父の姿があった。

丹沢から帰ってきた日の晩、祖父が我が家に立ち寄り、晩ご飯を一緒に食べることになった。楕円形のダイニングテーブルの周りに並べた椅子に、祖父がゆっくりと腰掛ける。いつもなら私の定位置だ。

母がその日の夜に振る舞ったのは、大皿に盛った大量の揚げ物だった。シソかつの他にチーズかつもあった。祖父は長い箸を伸ばし、目を細めながら止まらぬ勢いでいくつもシソかつを平らげていた。祖母が家で作るのは和食中心だったから、祖父にとって家で食べる揚げ物は珍しかったのだろうか? 老いて健啖家ではなくなっていた祖父が珍しく旺盛に食べる嬉しそうな横顔を、私は楕円形のテーブルの右端に座り、遠巻きにぼんやり見つめていた。

祖父が亡くなったのは、それから数週間後のことだった。
毎年恒例だった鎌倉の花火大会の日の翌朝、祖父はこの世への暇乞いもないまま、アッと言う間にいなくなってしまった。何の予兆もない心臓の病だった。前の晩、花火がよく見えるレストランの席をとり、大好きなビールを飲みながら相変わらずの顔をして夜空に打ち上がる煙火に興じていたという。それが良かったのは悪かったのかはわからないけれど、長年暮らした故郷の鎌倉の空が最も美しく彩られる日を待って新たな旅路へと向かった祖父は、いくらかは出発にその日を選べたことに満足だったのかもしれない。結局、母のシソかつは祖父と一緒に食べた最後の晩餐になってしまった。

向田邦子さんのエッセイ「ごはん」を読んで、母のシソかつを思い出した。向田さんが心に残るごはんは、家族で死を覚悟した「東京大空襲の翌日の昼餐」と、小児結核を患い、「いつか死ぬのだ」と思いながら病院帰りに母親と一つを分け合って「気がねしいしい食べた鰻丼」なのだそうだ。幸せを感じて食べたものの記憶より、「生き死にかかわりのあったふたつの『ごはん』」が思い出として蘇るという。

人生で心に残るごはんにシソかつを選んだ私も、やはり同じだった。カロリーなど気にせずに豪快に味わう揚げ物と、祖父を突然失った悲しみが綯い交ぜになった味は、他のどのごはんよりも忘れがたく、まるで本にこぼした消えないコーヒーのシミのように今も心に残り続けていた。

昨夜、晩ごはんにシソかつとチーズかつを作り、あの夜のように大皿に盛って家族で食べた。自分で作るのは、そう言えば初めてだ。母の味を思い出しながら記憶を遡る。息子が食べやすいように小さめサイズにしてから、中華鍋に油を注ぎ、大量のカツを一気に揚げた。

息子に祖父との思い出を話した流れで、心に残っているごはんを尋ねてみる。
彼の答えは、私の期待からは大きく外れ、「全部」だった。

「今日のカツも美味しいし、ビーフストロガノフもいいね。あ、けんちん汁もだね。里芋が好きだから」

偶然にも私が祖父を亡くした年齢と同い年の息子は、両祖父母が共に健在で家族の死をまだ知らない。だから、ごはんにまつわる思い出の濃淡がさほどなく、どれも記憶が淡くフラットなのだろうか。何か特別な一皿が聞けると思ったのに、「全部」と言われて肩を落とした私だったが、よく考えれば幸せなことでもある。

夫と息子に料理を毎日作り続けている今の私も、家族3人で食べてきたごはんの中では未だに「心に残るごはん」を絞りきれずにいる。クリスマスに家族で食べたローストチキン、息子と一緒に作った恵方巻き、皮から手作りした焼売や肉饅。年末に息子が子供向けの料理本を見ながら作ってくれた、「鶏肉のレモングリル」も印象深い。しかしそのどれもが心のアルバムの中のセピア色の写真のように、淡く柔らかな色で幾枚も並べて収められたままである。

人生の思い出ごはんを振り返りながら、文章を綴る今日、私の日運には「過去」を意味する星が巡っていた。こんな日はいつもよりどっぷりと、思い出に浸るに限る。

『向田邦子ベストエッセイ』には「ごはん」も収録。向田さんが常連だった銀座の店「COFFEEブリッヂ」にて。
息子が作ってくれた思い出の「鶏肉のレモングリル」(『とびきりおいしいおうちごはん』野村友里著/小学館)


※私の日々のごはんを投稿しているインスタグラムもよろしければご覧ください。

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