単独の結節点としてのノード

すこし抽象的なポストが続いたので、いったいどんな前提で書いているのかよく分からないというご批判があるかも知れない。そこでもう7年ほど前(2013年)にまとめたものになってしまうが「ノード連合のために」とタイトルを打ったメモがあるので、ここに再録しておきたい。

-----------------------------------------------------------------------------

まず何よりも、言葉が紡ぎだす物語(観念世界)をカッコに入れる必要がある。

という発想も言葉で書いている。だから言葉や物語をカッコに入れるとしても、どうすればいいのか。物語について批判的に語ることも言葉によってであり、言葉は避けられない。言葉と物語の欺瞞を見破り、同時に自分たちの言葉が欺瞞に陥らないようにするにはどうすればいいのか。

何かを語る、とりわけ一つの物語を語るとき、そこには語られなかった世界があり、意識的にすてられた思考の断片がある。物語はどこまでも恣意的に編成された、背後にある動機が隠されたものである。

たぶん言葉だけで言葉を乗り越えることは不可能なのだ。やろうとしても、それは物語に別の物語を対置することだけに終わるだろう。言葉に新しい表現ができるとすれば、言葉と無関係な「集合的な体験」が外部から出来事として暴力的に押し寄せたときだけだろう。

そのとき、言葉(主体)は混乱し、依るべきノームを失い、新しい表現を探り出そうとする。それはただちに理解され、流通することはないだろう。それまでの暗黙のコードから逸脱しているからだ。

だが、新しい表現も理解する人たちが出てくればしだいにコード化し、固定化していく運命にある。というのは、もともと現実は言葉を超えたものであり、時間とともに流動し、変容していくもので、言葉や物語はその後を追うことを運命づけられたものだからだ。

言葉が、つまりは人間が「これこれの概念や歴史観は普遍的である」と宣言するのは、たとえどれだけ周到に論理づけられていても、常に欺瞞やまやかしを含んでいると考えるべきだ。どう宣言しようと、概念や観念は、どこまでも部分的、断片的で、一時的な仮説に過ぎない。

ある言葉が欺瞞の罠からどれだけ距離を取れるかは、他者の「集合的な体験」にどれだけ開かれているか、また自分たちの物語が、あくまで断片的で、一時的な仮説に過ぎず、優先権はいつも流動し、言葉からはみ出しつづける現実に置かれるべきこと、言葉は何度でも死すべきことにどれだけ自覚的かにかかっている。しかし、これは言葉を発する人、物語る人に依存している以上、偶然的なものにならざるをえない。

もう一つ物語のコード化を避ける方法は、物語を共有しないことである。もちろんある物語が現実を鋭く切りとっていれば、それは人々の間で共感を生み出すし、それが自然な出来事である以上、避けられない。叫びも言葉だとすれば、およそ言葉を発し、紡ぐことは避けられない。しかし、共感が広がり、共有化が進めば進むほど、物語のコード化への誘惑も強まらざるをえない。

その誘惑を退けるためには、物語を語る主体があくまで「単独者」であることを維持しなければならないだろう。つまり、語られたある物語は、「単独者」と共に死すべき運命にあるということであり、それを受け入れることである。言い換えれば、これまでのような、ある物語を共通のクリード(信条)とする「党派」を形成しないということだ。

もちろん現実は、人々の集合的な力で動いていく。私たちはこの動きにその部分として参加していかなければならない。しかし、私たちは党派としてではなく、あくまで単独者として参加していくべきなのだ。

単独者であるべきだということは、何もそれが主体として絶対的な基準となるべきだということではない。それどころか、私たちはもはや「主体」なるものに信を置いていない

「主体は存在しない。ただ言表行為のさまざまな集団的アレンジメントが存在し、主体化はその一つにすぎず、このようなものとして表現の形式化あるいは記号の体制を指示するのであって、言語の内的条件を指示するのではない」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)

私たちがいかに無意識の情動に動かされているか、また主体的な努力などではなく、ただ他者との「集合的な体験」によってこそ変貌することを歴史から学んでいる。

その意味で、単独者は、他者と無意識的に、集合的に結びつく一つのノード(結節点)に過ぎない。

ノードがたがいに意識的に結びつくとすれば、それは党派としてではなく、互いの独立を侵犯しない一時的で、暫定的な「連合」という形式になるだろう。一つのテーマ、プロジェクトで協力しあうことがあっても、そこには党派のような永続的な盟約は存在しない。

私たちはその先駆的なかたちをネット上で活動しているアノニマス運動にみることができる。匿名(無名)であること、ボスを持たないこと、プロジェクトごとに協力しあうこと、プロジェクトが終われば解散することなどは、私たちのいうノード連合の先駆的なかたちである。

また最近のわが国の動きでいえば、原発の全面廃炉、再稼働阻止のシングルイシューを掲げた「反原連」の活動や、在特会などのレイシズムに正面から立ち向かっている「しばき隊」の成り立ちと活動にその萌芽を見ることができるだろう。

さまざまな弱さを抱えているとしても、あくまで個人(単独者)が主体となっていること、現場で行動することを結集軸としていること、党派を組まないこと、参加も離脱も自由であることなどの活動スタイルは、これまでの社会運動になかったものであり、その革新性は高く評価されるべきであるし、実際、多くの人びとの共感を呼んでいる。

アカデミズムやメディアに住む文化左翼たちが、この間、「反原連」や「しばき隊」を罵倒しているが、それは自分たちがこれらの運動によって既に乗り越えられていることの焦りからである。原発事故を前に再稼働阻止や廃炉に向けたたたかいにいち早く立ち上がったのは、党派ではなくこれらの人びとだった。日本の社会運動は、あきらかに新しい局面に入っている。これまでのほとんどの運動は破産している。

単独者として考え、行動するということは、他(の単独)者とのさまざまな差異を当然のこととして承認することを意味している。差異を取り除き、同一性を実現しようとするときに他者に対してだけでなく、自分自身へも物語(理念)の抑圧がはじまり、転倒が起こる。転倒とは、人間が、ではなく観念である物語が主人になっていくことである。

他者との差異はさまざまな領域で存在しているが、一番大きいのは「立ち向かうべき敵は誰か?」という領域だろう。差異は敵のとらえかたの違いとして現れてくる。敵が明確な場合もあり、その場合、差異は微妙なものにとどまっているだろうが、それでも存在する

この差異に直面したとき、「敵は一元的な存在である」あるいは「真犯人は必ず存在する」という思考回路に踏み込んでしまうのを避けなければならない。というのは、敵はさまざまな権力(を保持している人間たち)が折り重なっている一定の組み合せ(アレンジメント)であり、しかも真犯人は不在だからだ。それどころか、敵に立ち向おうとする私たち自身の内部にも敵は存在する。

他者との差異は、したがって、この敵の多元性のどこを(権力のアレンジメントのどの次元、どの構成要素を)主に見ているかの違いとして理解すべきだろう。

そして敵(権力)も永遠のものではなく、たえず変動しているとすれば、それに応じて他者との差異もまた変化していく。だから今日敵の認識で他者と一致したからといって、明日も一致するとは限らないし、逆もまた真である。

だから、私たち自身の認識も、不動のものではなく、耐えざる「変節」がむしろ当り前と考えるべきなのだ。

「変節」は「変身」「生成」でもある。そのきっかけが何であれ、それはかって知らなかった自分に出会うことであり、本質的に喜びの感情を伴う。

「大きい物語」に警戒心を怠らないということは、ポスト資本主義に生まれるであろう新しい共同体に予断を持ち込まないことでもある。はっきり言えば、それは分からないのだ。「分からない」とするからこそ、多くのノードとの出会いが広がるし、カルト化の誘惑から逃れることができる。

ただ、それは「現在」の人びとのたたかいの中から生まれてくることだけははっきりしている。たとえそれがたんなる予兆や萌芽であるとしても。新しい共同体は、いきなり千年王国的に空から降りてくる訳でもないし、ある党派の青写真によってあらかじめ描かれているわけでもない。

たたかいの現場で集合的な他者と出会い、そのことによって自分が「変身」していく。そして変身したノードの声(表現)は、他者に伝わり、それがまた私たちが予想できない他者の「変身」のきっかけとなる。この現象が「現実」を構成し、動かしていく。

そういう意味では、私たちは確かに現実を構成している。しかし、現実は私たち以外の無数の人々によっても構成されていて、単独者としての私たちはこの無数の人々と直接結びつくことができない。つまり私たちは決して現実の総体をとらえることはできないのだ。

だから繰り返せば「現実をとらえた」と僭称する人間たちとは距離をおく必要があるのだ。

「不可知論だ」という批判があるだろう。私たちはこの批判をそのまま受け入れたいと思う。その通りで、それで結構だと。しかし、近い歴史を振り返ってみても、「世界は知りえるし、設計できる」という可知論者たちこそ、もっとも抑圧的であり、大量殺戮を合理化してきたのではなかったか。かってのマルクス主義がその典型である。

あえてノードの運動を形容するとすれば、「不可知論にもとづくプラグマティスト」ということになるだろう。たたかいがある以上、目標があり、実践がある。しかし、私たちは部分部分の勝敗から学んでいくのであり、「きたるべき社会」の大風呂敷を広げることはしない。

現実が、多次元で、重層的なもの、けっして全体を見通すことはできないものだとすると、社会運動もまた同様の性質をもつと考える必要がある。どの社会運動が決定的な役割を果たすなどということをあらかじめ予想することはできない。いつどこでどのような運動が起るか、また互いに接触し、折り重なってどういう運動が生まれるかも予想できないのだ。それはただ出来事として現れてくるしかないものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?