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【民俗学漫談】バーチャル共同体

皆さん、スマートフォンをお持ちだと思いますが。

スマートフォン。今やあれを通じて社会とつながっていくものになっています。手放せなくなっちゃいましたね。

以前の携帯電話やポケベルは限られた範囲の共同体や組織とつながっていましたけど。

スマートフォンは社会とのつながりですね。あそこから情報を得ています。

十万年前から噂話が大好きな人間がネットを手にいれたわけです。

共同体に参加しなければ人間は生きていけない。外れる恐怖も知っている。必死になる。と。

「実力がある」人間は、権力者なわけで、その辺は昔と同じ。基本的に人間は安心して暮らしたいというのが本能としてある。ならば、権力者、今で言えば活躍している人とかかわりたい。というのが人間の情で、そのつながりの手段としてスマートフォンを用いていますね。

スマートフォンって、自分のかかわりたい人や情報と常にかかわっていられる装置になっちゃっていますよね。持ち運びしやすく、使いやすいコンピューターと言う事よりも。

バーチャルな共同体も含んで。

で、そのバーチャルな共同体がスマホを媒介として存在し、どのように構築してゆくのか。

自分が生きやすいように、力を発揮できるように、現実の共同体を組み直す。

ちなみに、私が以前仕事をしていたところでは、私が平気で部署の壁を越えて、意気投合した人と仕事をしていたんですけどね、上の方は気に入らなかったみたいですね。「せっかく縦に割ってんのに」と思っていたことでしょう。

それはそれとして。

自分がどういう物を選び、どういう場に参加するのか。それをスケジュールに入れる。効率が大事になってきます。

現代は自分で選ばねばならない物がたくさんありますね。

ま、自分で増やしているんですけど。


選択し続ける世界

物を選び、ほしがる習慣は、どこからくるんでしょうか。

それは、物を買うという行為が、さらには、持つ、使う、という行為が、自分を他人とを区別して、自分をその都度確かめる手段になっているところからきているんですね。

消費行動が、言語活動と同じ地平上で行われているんですよ。当然、物が増える。反して、言葉が少なくなる。名詞は増える。言葉は吹き飛ばされてしまったまま、戻ってくることがない。

人が言葉を仕入れてくるのと同じ感覚で新商品を求めます。味をしかも人工香料を変えただけの物さえ、別の商品と見てしまう程度の感覚で。

機械翻訳

グーグル翻訳が大量のデータをもとになされるのなら、そこには量があるだけで時間が介在していない。

人間は、時の上に立つものです。

人の言葉は時の中でその人が生きた環境によって作り上げられたものであるから、その人独自の言葉というものがあります。

怖くてまともな会話ができないという状況に置かれてしまうと、他人は次第にその人独自の言葉を失ってゆく。鬱になって、家に引きこもってしまえば、なおさらです。
家に居ながらネットの言葉を大量に浴びたところで、それは生きた言葉ではないから、グーグルの翻訳と変わらないわけです。

知っていることを知っても意味がない。
それこそ生きているとは言えず、バーチャルな世界でのシミュレーションに過ぎなくなる。
いいんだよ、躓いたって、手にできなくったって。
リアルな世界、先の見通せない世界、正解を知らない世界で立って生きていること自体に価値があるんだから。

効率よく、正解を取り続けたいだろうけど、自分なりのやり方で試行錯誤を重ねてゆくから、君は君でいられる。

言葉がその最たる例で、通常年を重ねるにつれ、自分なりの言葉というものが出来上がってくる。
それは、誰のものでもない、自分の言葉。
同じ母国語、同じ言葉を使っていても、他人それぞれに微妙なニュアンスが違う。
それは、見て聞いてきたもの、何につまづいて、何を振り切ったかによって、それぞれに価値のある言葉。
それは、その人が自分なりに生きてきたあかしである。

グーグルなどの機械翻訳が正確ではあるが、どこか変なものであるのは、そこに時の積み重ねがなく、単なるデータの量による選別の言葉であるからなんですよ。
将棋などのゲームではそれが強さに反映されますが、人の言葉は、強ければいいというものでもないし、むしろ弱さに特色が出ることもある。
また性格であれば良いというものでもない。

女神転生というゲームがありまして、今はペルソナですか、そこでは敵としてさまざまな『悪魔』が出てきますが、開発者はその『悪魔』の言葉を、当時の機械翻訳を参考に考えていたと聞きます。

機械翻訳は、まともな『人間』側から見れば、どこか異常な言葉の羅列でありますから、それが『悪魔』としての違和感を生じさせるのに一役買っていました。

人間というものは、新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくわけです。

試行錯誤と言いますが、「試行」は試しに行うことですし、「錯誤」は誤り・間違いですから、その字面からは錯誤の繰り返しであり、それが人の生き方であることを示しているともいえます。

つまり、未来予知の能力とは言わないまでも、仮に現在生じている大量のデータを集めて、最高の効率で『正解』を取り続けられる人間がいたとしたら、それは全く陳腐で無個性で『データ』や『数字』以外に何もその人を表せるものがない、ロボットのような雰囲気を醸し出しているわけです。

試行錯誤する人間、試行錯誤こそが人間なんだから、試行錯誤をしていくがいいのですよ。

その内と言いますが、すでにもうなされ、映画にまでなっていますが、AIと恋愛する日もそう遠くないのでしょうね。

データとの恋愛ですよ。
しかし、そのデータとの恋愛こそが『コスパが最も良い』わけですよ。
リアルという不合理な世界の恋愛ではなく、完全にバーチャルな世界での恋愛ならば、それは理想的な恋愛行為が叶うわけです。

ピュグマリオーンの肉体を外した精神のみの恋愛ですから、それこそ純愛と言えましょうか。

Vtuberの中身がAIになる事こそ、バーチャル共同体には望まれているのかもしれません。

隙間を埋める

 そこで、スマホの登場だ。

常に求め続け、選び続ける習慣ができてしまった脳にとって、スマホはなんでしょうか。人によってはパラダイス、またある人にとっては無限の荒野ですよ。

SNSのおみくじ感覚。何が出るかな。自分にとって都合の良い事ならいいな。

たぶん、スマートフォンからSNSを開くときの脳って、ルーレットが回っているときと同じなんじゃないの。中毒者にとっては。ドーパミンが出ているはずですよ。

人間の脳は、適応能力が高いんですよ。何事も意識せずに慣れれば何とでもなくなります。

脳は、成長期のあと、わずかに縮んでゆきます。でも、むしろ頭がよくなっていくのは、必要としていない、つまり、使わない事柄をつかさどる部分を捨てていくのだと言いますね。

スマホをいじくって、そこから情報を得て行動を決める。そのような行動をを繰り返していたら、それに「特化」した脳になっていくでしょう。

たとえば、就活にしても、「偏差値60以下は、英語とExcelをマスターすれば、有利になるだろう」とか、無関係の人が言いますが、しかし、それは空っぽのロボットのようなもの。仕事上頼りにはなるし、「使いやすい」が、人としての魅力を感じられるようになれるかどうか。

スマートフォンのような常に身に着けておくような情報通信デバイスは、必要最低限しか使わないか、でたらめな使い方をするかですよ。

自分の内から生ずる希望や、実際の人との関係性の中で見出した望みなら自分にふさわしい道が開けます。

でもね、デバイスの中で見つけた欲望ってのは、自分から離れさせますからね。

欲望がそこにあって、そこからスタートしているから、自分に必要でないものを欲しがる。

内心にもったりとした欲望を抱いていると、生き方の切れ味は鈍くなる。
中沢新一 アースダイバー増補版 p.272

人がスマホを手に握っている姿は祈念(きねん)をこめている姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。

自分の状況から脱出したいという欲を加速させるのに好都合ですね。スマホは。

自分の世界の隙間を埋めるために、心の隙間も含めて、SNSとゲームに半分以上費やすような使い方をしていると個性があいまいになるなんて、抽象的な話ではなく、脳の構造に影響が出ますよ。

通勤通学の風景に、スマホを操作する人々がすっかり定着しました。通勤は、「日常で最も不愉快な時間帯」だと言われています。

皆、あの場から、tripしたいんですよ。むしろ旅立ちたいんですよ。

にもかかわらず、見知らぬ他人と接近して、労働に向かう。

その状態を軽減するために、自分で選んだバーチャルな世界にtripしたい。

スマホはそういう使われ方になっていますね。

これ、伴大納言絵詞のシーンなんですが、スマホいじくっているようにしか見えません。必死です。本当は神に祈っている姿なので、必死に見えるのは当たり前です。

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現実次元の計算ずくの社会において、この先を考えながら今を決定しなくてはならない。人は、先にある目的のために行動を決めなくてはならぬ「もの」と化している。作業ですよ。そこで「計算」や「目的」から逸脱する蕩尽をすることにより、ものと化する己の失墜から逃れて、人としての自分を取り戻そうとしますね。目的に対する手段としての自分ではなく、主体としての自分です。

それで、スマホを用いて浪費しているんでしょうか。自分を。

しかも、今はカーニバルがない、ときてます。ハロウィンくらいですかね。年々、にぎやかになっていますね。あれも。WEB時代の、って、「WEB時代」っていう言い方があるのか知りませんが、WEB時代の祝祭になってゆきそうです。

祝祭のほとばしりがない世界で、隙間を埋めずにはすまない精神で、地道にタップやスクロールでほとばしりを薄めて。

WEBデザインのセオリーとしては、クリック数が少ないもの。というのがあるんですが、自分で選びたいのだから、クリックの回数は、2,3回はあった方がいいんですよ。チラシのようにすべて入れ込んだページを作れば、人は、クリックするところを探すに違いないんです。

どのみち、浪費をせねば人間に残っている混沌は済まないでしょう。持っていきどころだよね。すべては。愛の。

たとえば電車でのスマホがかっこよくないとしたら、電車で何をしていればかっこいいのか。

もしくは、どこでならスマホはかっこよく使えるのか。

スマホを見ながら目的地に行くことが当たり前になって、通りすがりの人に道を聞くことが、少し飛躍がいる行為になってしまっている。

皆個性を発揮したがる。脳が働いている限り、当たり前のことです。

個性を発揮しても、その個性がたちどころに相対化され、消費の一要素として組み込まれてしまう。

これは、クリエイターの作品だけではなく、人間関係も同じことですよ。

互いに何か、行動して、記念撮影をし、記念品を購入し、互いに見せ合うことで人間関係の一部も成り立っている。

自分に記念のイベントを張り付けて、ようやくあいまいな「わたし」というものの輪郭を形作ろうとしている。

Facebookなども、何かしらの契機を『イベント』というカテゴリーにしていますよね。

SNS上で、ともすれば曖昧になりがちな「わたし」というものを視覚的に「誰」であるかをはっきりさせようとしているわけです。

何もお金のやり取りだけが消費ではないんです。
消費することに慣れ切ると、人間関係も消費の手法を以て行ってしまう。
気分のために、相手の存在を消費するわけです。

SNS上で人が休みの日に何をしていたかなんて、さらっと見るという行為は消費と変わりません。

『正解』探し

自分にとっての理想の世界を妄想しだすと、今の世界との接点がなくなってゆきます。
例えば後悔。
過去に戻ってやり直す、取り戻したがる、つまり過去の穴埋めをしたがる癖が、今何をすべきかをわからなくさせる、つまり今の状況にいつまでも追いつけない状態を作り出してしまいます。

人々が、一時の徒花のような消費文化に疲れてくる。深く考えないようにして、流れに乗っている。
SNSにしても、一時の関係性、それが断続的に続いているようなもの。
人々が、SNSをしているのは、気分の慰めでしている。
ところが、自分がホストといいますか、主観的にこれを使うと、それを忘れてしまう。

ほとんどが気分で、一般的なアドバイスしかしていない。
それを踏まえて、取捨選択し、かつ編集できる能力がなければ、自分がわからなくなる可能性の方が高い気がします。

そもそも自分がわからなくて、さらには、リアルでどうしたらいいのかわからなくなって、SNSの海を漂っているのでしょうから。

精神が安定しづらい人は、lineなど知り合いとつながるものくらいにしておいて、SNSは、情報収集ツールにとどめておいた方が無難な気がします。

スポーツ選手などでも、いろいろな人がアドバイスをしてくるそうです。コーチ以外にも。

一流選手になるには、何でもかんでも参考にしてしまうのではなく、それらを自分に合うのか合わないのか、遠慮なしに取捨選択ができることも、才能や努力の一つといっても差支えがないくらいに、重要なことなのです。

残念ながら、人生に正解はないのかもしれません。これは、哲学者が言っています。

活躍している人は、正解があるようにふるまっています。

それは、不安を振り払うためと同時に、正解があるようなふり、自分は知っているふりをしていた方が、利益を得られるからです。

なにしろ、多くの人々が、日々、正解を求めているのですから。

価値の一様化

価値観の多様化と言いながら、その実、同じような価値観に統一されてきてますね。
欲望の通行路がネットですから。道具が同じなら欲望も似てきます。

望ましいとされる基準、生活でも思想でも、美でさえも、多種多様であった世界の様々なものが単一化してきている。

そこにあるのは合理性ですね。

便利で合理的、つまりは効率的ならそれが正しい。

衣食住、街並みでもファッションでも、娯楽でも趣味でもほとんど労働というか、仕事というか、計画かあって、それを実行する。

仕事でもないのに、PDCAサイクルをまわしちゃっているわけですよ。

炭かも住む場所も効率を考える。利便性や資産価値ですね。

そりゃ、いまだに東京に集中し続けますよ。

東京の都市圏に日本の人口の三割が集中していますね。世界最大の都市圏ですよ。

90年代はほとんど増えなかったんですが、2000年に入ってから大雑把に年間10万人くらい増えている。

ネットの広まりと人口集中の再開が一致してないですかね。もちろん土地利用の規制緩和があるのでしょうが。

ネット、今時はSNSと言った方が正確でしようが、ネットは同じ価値観に集中しやすい。

合理的で正しいものを一方的に示してしまえば、あとは勝手に皆が信奉してくれる。遍く、広くいきわたるのに適したテクノロジーなわけです。

文化的なものはあくまでもお遊びの範囲、日日常に追いやって、日常は合理的なもの、無国籍なもの、つまりはテクノロジーによって動かされる世界、考えによって動く。

考えが均質化され、世界基準のものが正しいとされる。
なぜならそれを示す人々が羽振りがよさそうに見えるから。

ネットを毎日見るうちに、そうした世界基準のテクノロジーによって支えられた生活が正しいものと疑いもなく考えるようになる。

そうなってくると、それまでは、お金持ちは羨ましいけど、阿それはそれとして生きていた人々も、テクノロジーによって、自分たちも少しは稼げげるるんじゃないかと思い、その価値観の世界に入り込む。

過度の標準化

個性的な考えが尊重される一方で、社会全体としては、生活水準の格差が広がる。

人と言うものはだいたい5000人くらいは認識できるらしいです。
適度な大きさの共同体はその程度らしいんですよ。

ところが、ネットの世界は広すぎる。

人間は、こんなに大きな世界に入り込んだことがない。

いきなり、町単位の共同体に暮らしていた生き物が、地球単位、惑星単位になってしまった。

人間には自己顕示欲があります。自分を示したい欲望ですね。

この欲望は本能的な欲望を凌駕しさえします。

適度な範囲の共同体で示していればよかった自分が、いきなり広大な世界で、自己顕示欲を示さなくては済まなくなったらどうでしょう。

しかも、かつてとは違い、その同じ価値観に参加する人間の数、参加者は膨大なものとなりました。

つまりそこに投ずるリソース、つまりお金の数は膨大となった。

これを皆で手にする競争となりました。

これが価値観の標準化ですね。

お互いがSNSの世界で、お互いの状態を見て真似をする。

おそらくミラーニューロンのおかげで、人間は人を見て真似をする。感情を抱く。学習する。
それであるからこそ、バーチャルなデータである写真や映像を見て、感情が動き、欲しがり、またそれらを暮らしの基準、目標として抱いてしまう。
人間の知能のせいで、自らを果てしない価値基準の追跡に放り込んでしまう。

しかも、その価値基準はテクノロジーに裏打ちされたものなんですよ。

どういうことか。テクノロジーに支えられた価値観と言うものは、限りなく発展しないと済まないんですよ。

衣食住。今時、10年も20年も同じ服を着ている人はいるのでしょうか。
二十歳に買ったスーツをずっと来ている人はいるのでしょうか。
食べ物も毎年毎年季節に合わせて新しいものを作り出していますよね。
前までなら、この節句にはこの食べ物という体殿理由づけがありましたが、最近はそんな大義名分なくなってきて、レストランからコンビニまで一斉に同じようなものを売り出す。
家でも家電製品でも買い替え前提な部分もありますよね。

仕事でもそうですよ。

一昔前の八百屋魚屋なら、それ以上何も考えなくても眼の前の野菜を売り、魚をさばいていればそれで済んだんですよ。

魚屋は他の魚屋を見ていれば済んだ。
今やSNS全体をチェックするわけですよ。

価値観が同じになる。皆が皆同じになって、では、皆平等になるかというと、そんなことはまるでなく、却ってライバル意識が激しくなる。

価値観で統一化されたもの同士は、同じ社会、同じ身分なわけですよ。
身分が同じなら負けたくないんですよ、人間というものは。

関係なければ芽生えなかった対抗意識が芽生えてしまうんですね。

江戸自体、武士がいましたね。士農工商なんて言って、武士は身分制度の一番上にいたと。

では武士の中ではどうだったか。

江戸時代、まったく同じ身分の武士はいなかったらしいんだすよ。

家来同士でも身分の上下関係があった。

これ、身分制度から解放されたはずの人間が、わざわざ今でも『マウント』などと称して、身分制度を自分で作り出していますよね。

家がどこにあるか、時計は何を身に着けているか、仕事は何をしているのか、人脈は豊富か、結局年収はいくらなのか。

自己顕示欲に実態なんてありません。

ないから、この価値基準の信奉者たちの上に立つ者にとっては都合がいいんだすよ。

もう何を求めたらいいかわからないんですよ。

だからお金を求めるしかないんですよ。

お金持ちでない人々は、別の文化や価値観の内に暮らしているのではなく、理想の暮らしにおいて行かれているにすぎない。

昔なら、お伽噺の世界だった理想的な暮らしが、もしかしたら自分たちもその可能性があるのかもしれないと言って、中腰になってしまう。

格差が広がるのは、暮らしの価値基準が同一化されるからに他ならない。
皆で同じものを目指すということは、皆で同じものに対してその対価を支払い続けるということであり、その経済力に応じて上から順に手にするという状態になる。
しかも、その上の者にしても、さらに上のものを欲しがるから、際限がない。

テクノロジーの発達により、便利で合理的な物事が価値基準として正しさとして信じられるようになってきた。

最も便利で合理的なものはお金である。

お金は、個性を消すから、お金を信奉するほどに、自分がわからなくなり、世間の価値基準に当てはめようとする。
小児の頃から学校でしてきたように。

しかし、そこにあるのはコンプレックス混じりの欲望でしかないのではないか。

優越感もまたコンプレックスなんですよ。

inferiority complex:劣等感
superiority complex:優越感

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