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【民俗学漫談】文字というテクノロジー

思想をわがものに

日本美術の本をめくっていて、どうも趣味に合うのは、長谷川等伯から始まって、琳派、蕪村に芦雪や若冲できわまる感じがしました。それ以前の仏教美術や以後の浮世絵も素晴らしいとは思うんですが。

それ以前の物にはなかったものがあるんですよね。

落ち着き? バランス? 色合い? 構図? 大胆さ? 迷いのなさ?

なんでしょうか。

で、なんで、そのころになって、美術が違うものになってきたのかと思ったんですよ。

それは、思想と言いいますか、精神面での変化があったのではないか。

思想を絵画で表せる。

自分の現実を超えた世界を考えられるようになる、と言うのは、思想の始まりですね。これは安土桃山から江戸時代どころか、太古に人間が絵を描き始めた時、続いて文字を持った時にまた一段階あったことです。

別にあの世の事を思うという素朴な事ではなくて、今ではない先の事、ここではないあの世界を思考することが、この頃に、一部のエリート層以外にもできるようになってきたということではないでしょうか。

それは、ようやく、日本人の多くが文字を使いこなせるようになったことの表れなんですよ。

思考は言葉でしますが、書かないと、先には進めないんですよ。

言葉があれば、コミュニケーションができますが、文字がないと思想は生まれません。

日本人は文字を開発せずに、輸入した。

輸入した文字は中国語を表記するものだったから、そのままでは日本語を表せない。

どうしたかと言うと、日本語の音を原則として一つの漢字で表した。「あ」という音なら「亜」とか「阿」とか。音が同じならどの漢字でもやってみた。

それで音は表せたから、後は、一音に一つの漢字を当てはめて文章として残せるようになったんですね。ただ、この方法は、音と同じだけ文字が必要になります。恋なら古比とかね。

で、意味は意味で、漢字の意味を用いる。意味は漢字でも、音は日本語です。例えば「雨」とか。一文字で表せます。

で、この漢字一字を日本語の音として用いる、音ではなくて、漢字の意味を用いる。音は音で、今で言えば送り仮名のように使った。

これをまとめて万葉仮名と言います。

全部漢字なんですが、漢文ではない。また、全部が全部音読みと言うわけでもない。

これが日本語の文字の始まりです。

ちなみに、菊の花。菊(きく)は音読みです。訓読みはなんですよ。

なんででしょうか。

漢字が輸入された後に菊の花が日本に伝わったからなんですよ。8世紀後半に薬草として。

漢字が伝わる前に、日本には菊の花がなかったから、菊の花を表す言葉が日本語になかった。

野菊は咲いていたらしいですが、言葉としてはなかった。

また、肉(にく)。肉も音読みです。しかし、訓読みはあるんですよ。肉は漢字以前に日本にもありましたからね。ちなみに、訓読みは「しし」です。

あとは、漢語ですね。経緯と書いて「けいい」と読むんですが、「いきさつ」とも読めます。この漢字があてられているのは、音でなくて、意味で表している例ですね。

熟語で意味が分からない物は日本語になおすといいですよ。学習は、学んで習うという意味です。

文字の開発

音声的なことばと絵はどちらが先に生まれたのか。まあ、ことばでしょう。ことばの力を永続的に残したくて、絵を描き始め、絵の抽象化をさらに進めて文字が作られたはず。

ここでのことばとは、まだ言語というよりも思いに近い意味です。

文字ができたのは、今から4千年か5千年くらい前ですかね。シュメールですよ。

始めは、記録伝達用ですね。

記録して伝える必要がないような社会では文字は生まれませんし、使おうと思いません。口で十分ですから。

記録は、例えば、動物の絵の横に数字が記されていたんですね。

国家にどれほどの収入があったのか。

そのような記録です。

その絵が次第に簡略化して、記号化して、個性が消えて、複数人の間で用いられた。

文字の誕生です。

もちろん、始めはごく少ない人しか使えませんでした。

始めというか、ずっとごく一部の物だったんですけどね。文字というテクノロジーは。

始めは文法はない。名詞だけてす。文法がなければ思考ができない。

まだ、文字で思考するなんて、誰も考えなかったんですよ。

文字の使い方の発展

最初は、帳簿付け、つまり過去を記録するための物でしかなかった文字。おさめられた家畜の数とか、王様の生まれた日とか。それが神託を記録するようになった。神託も過去の記録には違いがないが、それは言葉だけのもので現実のものではないんですよ。その記録は、未来に向かった投げられた過去の記録となる。つまり、いまだ誰も知り得ぬ状況の記録なんです。その誰も知り得た記録を文字で記した。これを誰かが、この使い方はいけると思って、神話をつけるようになったんじゃないんですかね。

自分が知らないこと、見てもいないし聞いてもいないことを記せるという発見。

神と人とのコミュニケーションに文字という技術が入ってきたんですね。

ここにフィクションが成立します。

いつからフィクションを書くようになったのか。いつから現存する人々のだれも知らなすことを記録するようになったのか。

神託を「記録」することからでしょう。そこから、文字を用いて正確でない物も記していいという感覚が初めて生まれたはずです。

自分の頭の中って、正確じゃないですからね。

その正確でないものをあらわすには、文字しかない。

文字を書けないという事は自分の意志を知らない人に伝えられないという事なんですよ。

声に出す言葉は、話している先から消えてゆく。

普段、人と話していて、お互い、いかに相手の話を理解していないか。それにもかかわらず、コミュニケーションは成り立ってしまう。

コメントしただけで満足する。思い付きを話しただけでは、お互いに何を言っているのかわかっていません。

会話とは、お互いの話にのっていくということ。

文字で記すから、手の動きに沿って、思考が進んでゆくんですよ。

文字によって思考が進み、個性が生まれる

ひらがなは、一つの文字で一つの音を表しています。意味はありません。音だけです。

そのひらがなを何文字か組み合わせると一つの意味を表します。アルファベットと同じです。

漢字は一つの文字で一つの意味を合わしています。

日本人は、文字を輸入した。自分たちの使いやすいように工夫した。

曖昧な用法を整えたり、覚えやすくした。

人がそれぞれ言葉を使っている。でも、ひとりひとり、話し方も書き方、文体が違いますよね。同じ言葉でもひとによって、使い方が違うんですよ。一人一人考え方が違っているから。

英語で文体の事をスタイルと言います。

もともとは石板に書くための鉄筆の事だったみたいですね。

書くということは、自分の外側に刻み付けるんてすよ。その刻み付けられたものを見て、さらに思考が進む。考えるとはそういう行為なんです。

自分の考えを言葉に変換するために文字を用いる。

私、今書くこをパソコンでやっていますが、いちいち入力をするためにキーを叩く。

一度、言葉をバラバラにしてキーを叩いて、変換を押して、一度で出なければ検索をして自分の言葉を探す、という事をしていますが、これ、書くという事なんだろうか、と思いますね。

手と脳が連動しているんでしょうか。

しかも、スマートフォンだと、言葉が出てきますよね。その検索候補の一覧から選ぶ。

あとは並べるだけ。書いているというより、sumplingとlimixのようですね。

これをやっていると、皆が皆、文体が同じになってゆきますよ。

文体が同じという事は、考えも同じ。個性に差が無くなってゆくという事です。

テンポというか、リズムというか、そういうものが何にでもある。文章にしても、その人の好むペースというのがあって、今は、WEB上で読むのが日常的になっています。横書きで情報を拾う。それで小説の遅さに戸惑い、上手な文章を、引っ掛かりのある文章と思ってしまう。そのギャップを表現できるmediaはあるんでしょうか。相対性理論のようです。時間の流れの速さが変わっていますね。

口から出る言葉を文字にしているというだけで十分アクロバットな行為なんですが。

ところで、音楽みたく、文学もfeatueringとかできないのかな。連歌とかじゃなくて。

音楽やっている人は楽しそうだ。

人間は、語りと、音楽と、食事が大好き。原始時代から同じです。

音楽家は楽器があっていいなあ。

文学はパソコンで書く物になっちゃってるからなあ。

この間、「その発想はなかった」と、仕事上の会話で使っていた方がいましたが、かたまりとしてことばを覚えている気がします。

テレビで見た芸人のせりふをそのまま頭に入れていませんかね。40代、50代の方ですよ。それは外国語を覚える時のやり方ですよね。フレーズとして頭に入ってきて、フレーズとして出す。編集行為ができていない。ロボットと同じですよ。プログラミングされているのに近い。覚えたフレーズを文脈に吐き出しているだけ。

それでは、会話にならない。相手がいませんよ。

じつは40になっても50になっても言葉を覚え続けているのではないんでしょうか。それまでの言葉を捨てる行為とともに。

しかし、最近、「正直、なになに」と言う話し方をする方が多いですが、正直は正しく、まっすぐにと言うそのままの意味ですよ。「本音としては」と言うべきですね。しかし、本音は漏らすべきではありませんね。

字のあるべき場所をどのように回復するか。

漢字が画数の少ないものほど生き残りやすいように、言葉、それに連なる思考も簡単なものを使いたくなるのが人の脳と言うものですが。

同じ物を繰り返すことによって、状況は、シンボル化されてゆく。
そこから文字や記号が生まれて来る。ルールも。

書いた時点で、その言葉は自分から離れてゆく。

鬱のときの文章がまずいのは、言葉を表現の道具に貶めているからだと思う。
自然と湧き上がってくる言葉。言葉と言葉を紡いでゆくという行為。この言葉の次にはこの言葉しかないというぴたりとした感覚。
それらを鑑みずに自分が言いたいことを無理やり言葉に言わせているようなグロテスクな行為になってしまう。
それは、言葉を失っているのかもしれない。

言葉は、自分の思うことを述べる道具ではなく、情報伝達の道具でもなく、優しく扱うものです。

思うことや情報伝達の道具なら、絵文字や映像で代わりは務まります。

多和田さんがいっていたが、PCで「書く」と言うのは検索する行為に近い。いとうせいこうさんは、ローマ字にして入力することがアバンギャルドと言っていた。皮肉かもしれないが。

人間の脳は、適応能力が高い。なれれば何とでもなくなる。
脳は、成長し切ったあと縮んでゆく。しかし、むしろ頭がよくなっていくのは、必要としていない、つまり、使わない事柄をつかさどる部分を捨てていくのだと言う。
スマホをいじくって、其処から情報を得て行動を決める。と言うようなことを繰り返していたら、それに「特化」した脳になっていくだろう。

簡単な言葉しか使わないと、恐怖を感じる。恐怖というより、不安。

お笑いも文化的基盤がないと笑えない
塊として言葉を覚えている。TVでみた芸人のせりふを。
それは外国語を覚えるときのやり方。フレーズとして頭に入ってきて、フレーズとして出す。編集行為ができていない。
文脈に吐き出している。

いまやSNSが全盛です。

そこでは会話が文字によって交わされていますね。

その会話も、文字数が限定されています。

Twitterは140字です。

140字だから中毒性がある。

これはおみくじと同じです。

おみくじが、2000字書いてあったら、どうだろう。読みますか?

文字ができるまでどのような道具、技術を持っていたのか。

貝のネックレス、顔料、楽器は10万年前にあった。平安貴族と同じ興味。

文字がなくても「作業」はできる。文字を持たねば何をやっても作業。

文字は、必ず伝えなければならぬその社会の重要事を伝えるために生まれたのではなく、とるにたらぬが、記録しておくべきことを残すために生まれた。
記憶ではなく、記録のための物だった。神話や技術や法ではなく。
記憶は、交渉伝承で十分賄えた。

人類と言う概念が、民族の個性を消してゆく。
社会と言う考えが、個人を平均的に削ってゆくように。

ひとつのセンテンスは、ひとつの単語であり、さらに言えば、ひとつの文字であって、手で書く場合は、それを当たり前のようにしているが、ワープロで入力される場合は、それがバラバラにされてしまう。一つ一つキーを入力して入力し終わった時に初めてセンテンスが現われる。入力し終わるまでは、書くことや、まして、考えるということとは別の作業をしている。検索作業に過ぎない。手書きの場合で言えば、一角一角を別々に書いているようなものである。此れでは思考がバラバラに拡散してしまうだろう。

言葉が単純になればなるほど伝わりやすくなります。受け手が解釈してくれますから。

しかも、自由に解釈はしないんですよ。個性的な解釈をしようとしても、多数の解釈を受け入れますから。

それでも通用しなければ写真や絵を使い、ポスターや雑誌にします。多義的な解釈をさせないように、写真家やデザイナー、コピーライターが頭をひねるわけです。戦時中の作品を見るとよくわかりますね。

全体主義国家でもないのに、国家が、国民にとって都合のよくないことを求めるときは、必ず、写真や映像を使います。さらにキャッチコピーを付けます。

キャッチコピーはそういうものなんです。

その手法が現代の広告に活用されている。それはとても不思議といいますか、はっきり言えば異様なことなのです。


SNSのやり取りで、句読点をつけず、絵文字やイラストをその代わりにしていますが、あれ、ヒエログリフの決定詞ですよね。
例えば、猫を表す三文字のヒエログリフの後に続いて座った猫の絵が来る。
ヒエログリフには元から句読点がありませんから。
決定詞で区切る。
今のSNSで言えば、『猫(猫のイラスト)』と来るわけです。
猫のイラストは発音しない。

古代エジプトの記述法ですわな。


インドとかネパールで一月下旬から二月上旬辺りに『バサントパンチャミ』と呼ばれる祭りが行われます。
学問や芸術の女神、サラスヴァティーを祭るわけですが、小児に初めて字を書かせたりするようです。
ネパールの写真見たら、壁は文字だらけになります。
文字を読み書きさせることで、文明社会に取り込むわけです。

今は、ほとんど字を書かなくなりましたね。

30年前に紙で版下を作っていた編集の時代と、今のアドビやマイクソフトやグーグルの時代と引き比べると、効率が良くなっただけで、個々人にとって便利になっているとは思えませんが、商売には甚だ都合がいいのでしょう。

私もそうですが、手で文字を描かなくなったことは、どこか危うい気もします。
コンピューターで書くのは効率がいいのですが、これは書くというよりも、検索しているような行為に思えます。

べん‐り【便利】
都合のよいこと。うまく役立つこと。「これは―な道具だ」

広辞苑第六版


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