本を読めるようになった私の読書感想文
小学生の頃、夏休みの宿題である「読書感想文」をなかなか書くことができなくて、結局、書かないまま終わった夏休みが何度もあった。親や先生に怒られようが、感想文を完成させることができなかった。
小学校6年生の夏休み。いよいよ小学校生活最後の読書感想文を書くにあたって、私は『今年はまともな読書感想文を書く』ことを自分への課題とした。夏休み前に、担任の先生に読書感想文の基本的な書き方を教えてもらい、それに従って感想文を書き上げた私は、小学校生活で初めて指定された原稿用紙の枚数をクリアした『まともな感想文』を学校に提出することができた。
完成した感想文は、前半に読んだ本(何を読んだかは忘れた)のあらすじを書いて、後半に感想を書くという、教科書どおりの文章だった。私は自分の書いた感想文を読んでみて、「ほんとに面白くない文章だなー」と思った。
でも、その感想文は先生から「すごい、良く書けてるじゃない!」と褒められ、夏休みが明けてから開催される、地区の読書感想文コンクールに出されることになった(結果はもちろん覚えていない)。そして私が小学生時代に最も忌み嫌っていた『校内読書感想文発表会』にもクラスを代表して出場しなければならなくなり、「やっぱり、感想文なんて書くもんじゃないなー」と思ったことは今でもはっきり覚えている。それまで宿題をまともに出していなかった罰ゲームだったんでしょうね。たぶん。
大人になってこのエピソードを思い出したときに、私がなぜ読書感想文が苦手だったのかという理由が分かった。たぶんそれは、「夏休みの課題図書がつまらなかった」ということだ。これは課題図書自体の問題ではない。私自身が読書に全く興味がなかったことが原因。「本を読む」という行為に砂粒ほどの興味もなかった小学生の私にとっては、どんな本を読んでも「なにこれ?意味わかんねー」で片づけられてしまうものだったんだと思う。
教科書に書かれている感想文の例や、クラスメイトが書いた「素晴らしい感想文」を見てみると、皆、読んだ本の素晴らしさや面白さを書いている。それを見ていたので、本を読んでも「つまんねー」と思っていた小学生の私には、本を読んでその面白さを文章にすることなんて不可能だったのだ。そもそも本もまともに読めないんだから、感想なんて書けない。運動が好きだった私には「校庭5周走る」ことは抵抗なかったけど、「読書感想文5枚書く」ことは苦痛だった。運動が苦手な人が走るのを強要されるのと同じ感覚なのかな。
noteの企画、『読書感想文投稿コンテスト「#読書の秋2020」』に参加するために課題図書を読んで、いざ感想文を書こうと思ったら、前置きばかりが長くなってしまった。やっと本題。
私が課題図書として選んだのは、木皿泉さん著『昨夜のカレー、明日のパン』。
この本を選んだ理由は「今まで読んだことのない作家さんの本」だったから。せっかくの機会なので、新たな作家さんとの出会いを求め、直観でこの本を選びました。読んでみてあまり面白くなかったら、感想文は書かなければ良いと思って、勢いでアマゾンkindle版を購入。空き時間を使って読んでみたら、ススッと物語の世界観に引き込まれた。
物語は「身近な人の死」から展開する人々の人間模様を描いている。いくつかの章に分かれ、章ごとに主人公が入れ替わりながらも、各章の登場人物が絡み合う形で全体の大きな物語を推し進める構成。登場人物は皆、ちょっとクセのあるキャラクターだけど、それがその人物に血を通わせ、実在性を与えているように感じた。現実世界でもクセのない人間なんていない。良くも悪くも、それが個性というものだ。今は物理的にも精神的にもクリーンさを求められる世の中だけど、人間、クリーンな部分だけでは生きられない。この本の登場人物は、人に対して基本的な信頼を置きながらも、自分や周りの人のクリーンじゃない部分を見つめ、それと折り合うという現実的対応を行っている。この物語は、現実に生きている私たちのことを描いている、そして私自身の話をしていると思わせてくれる。私がこの物語に引き込まれた理由はそこにあると感じた。そう思うと、題名に「カレー」と「パン」という言葉が使われていることに妙に納得してしまった。
4月に単身赴任生活になってから、私も20年以上前の身近な人の死について、1人部屋の中で想いを巡らせていたところだった。そのタイミングでこの本に出会ったのは、何か特別な力が働いたのではないかと感じた。これは偶然ではなく、必然と思ったほうが良いのかな。ともかく、良い本に出会えたことに感謝。
以上、中学生以来の感想文を書いてみて、やっぱり私は感想文は苦手だと思った。大体、この文章自体が感想文ではなく、「感想文についての作文」になってしまっているし。まあ、それはそれで別に構わない。出来が悪かったとしてもそれを叱ってくれる先生はいないし、仮に上手くかけていたとしても人前で発表するような罰ゲームもない。少なくとも、本を読むことを楽しめるようになったことだけは、小学生の頃から成長した部分であることは間違いない。それだけで十分。そう思うことにしよう。
おわり
サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。