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「てんでダメな人」が一晩で「エコな人」になったわけ

運転免許を持っていません。

東京で生まれ育って、必要を感じなかったせいです。
祖父母・父母・姉、誰も免許を持っていなかったせいです。
ひとまずヒトのせいにしておきます。

親が運転しないということは、家に車がないということです。

思うに、親が運転するのを後ろから見ている子供は、無意識に運転を習っています。

外国語と同じです。「慣れて」いるのです。
反対に、親が運転する姿を見ていない子供は、イチから習わねばなりません。ため息の出る作業です。

そもそも、「車」の存在が不可解であります。
何百万円もするものを、無造作に路上に置くことが理解できない。
車はでっかくて重い札束です。さらにはそれが、あまざらしになったり、その上に鳥がふんを落としていったりするのを見ると、頭が混乱してくる。

人生がさらに色濃く味わい深いものに思えてくる。
 
「車の運転」というものが、こんなにも一般的なスキルだとは20代半ばまで知りませんでした。

高校を卒業したころ、あのころ、今思えば、教習所に通っていた人もいたのかもしれないけど、話題にも上りませんでした。

遊びに行くときは基本電車で、車でどこかいく機会もなかったしなー。

たまに「免許取れた!」と連絡をくれた友人がいました。
「おお!それはそれは」
「そんな趣味があったのか」と感心しました。パワーショベルが操作ができるようになった、と報告されたような気持でした。おめでとう!

大学時代に、友人の男の子に「送ってあげるよー」と言われて、何も考えずにするっと後部座席に乗り込みました。車と言えばタクシーしか乗ったことがなかったので、助手席が「席」だと思っていませんでした。
助手席はモノを置く場所か、文字通り「助手」みたいな人が座る特別な席かと思ってた。そのときの友人の表情を覚えてないです。
 
オーストラリアは車社会です。

いわゆる「車の教習所」というものはありません。

簡単な筆記試験みたいなものを受けて、そのあと、免許を持っている家族に教えてもらって、最後に公的機関で試験を受けて終わり。

「簡単だよ、マジで!」
「日本と比べてお金もかからないし!」

と言われて最初の筆記試験を受けに行きました。コンピューターでの選択問題です。

「これで落ちる人ぜーったい、いないから大丈夫!」

「万が一落ちる奴いたら、それかなりやばいよ(笑)」

の声援をうけながらアッサリ落ちました。「ぜったい」「やばい」のことばの定義を考え直す良い機会でした。

そのとき「やっぱりなー」「運転DNAというものがあるんだよ、きっと」「そしてそれはあたしにゃないんだよ、きっと」と納得して、今に至ります。
 
オーストラリアで「免許持ってない」というとギョッとされます。超レアなのです。カードだったら高額で売れます。

電気の修理に来たおじさんと世間話のついでにそう言ったら、だんだん機嫌が悪くなってきました。

「免許を持っていないなんて、無責任だ」という。
 
それからは「免許持ってないんですよね...」と若干わけアリ風に、申し訳なさそうに言う術を身につけました。

「トーキョーは交通網も発達してるし、車を持つとかえって、渋滞とかー、あと、駐車場代なんて家賃ぐらいするんですよね...」

と嘆かわし気に首を振りつつ

「車を持つとコスパが悪い」話にすり替えます。これはわりと効果的です。

「宗教」「政治」「民族的慣習」に口を出すのははしたないと考える人が多いので、それ以上追求されません。
 
ある朝、知り合いと立ち話をしていて

「私は運転しないのだ」と言うと

「おお...!そうだよね。私もそうしたほうがいいことは分かっているのだけど、どうしても利便性を優先させてしまい。それじゃいけないよね。あなたはすごい」と熱っぽく褒めてくれました。
 
話が見えない。
 
時は2018年。グレタさん登場の年です。
メルボルンでも若者たちのデモ行進が行われました。
 
知人は私のことを、自動車や飛行機に乗ることを拒否して、自転車や徒歩で移動する「ものすごくエコな人」と認識したのでした。

そうかー! 私はエコな人だったのだ!!知らなかった!はじめまして、新しいアタシ!

その時から、それまで「気分」でポイポイ分別していたゴミを念入りに分別するようになりました。

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