読書メモ:有閑階級の理論
「異端者」ヴェブレン。
制度学派の事実上の創始者ヴェブレンが進化論的経済学を説き、新古典派経済学への批判を展開した「奇書」!
ソースタイン・ヴェブレン(1899年初版)/ 訳者:村井章子(2016年新版)
衒示(げんじ)的消費
ヴェブレンの名前が経済学史以外の文脈で現在において参照される機会があるとすれば、ラグジュアリー・マーケティングの分野での「ヴェブレン財」として、くらいであろうか。ヴェブレン財とは、所得が高い層になるほど需要が増すという上級財に属し、価格が高いほど需要が増すという性質を持つ財を指す用語である。この用語は、社会の最上流に君臨する富裕層である有閑階級の生活様式を明らかにした本書に因むものであることは言うまでもない。
本書では有閑階級の生活の全て、流行の服飾、飲食、娯楽、家族関係、家政さらには高等教育までが、「見せびらかし」のための浪費である衒示(げんじ)的消費であることが論じられている。そこでは人類史の視点から民族学の研究や理論も借用しつつ、あたかも自らの地位と権威を誇示するため全ての財産を贈与し蕩尽する未開の部族の習俗を論じるかのように、有閑階級の生活様式の本質が描き出されているのだ。その筆致はあくまでも学術研究の書として抑制されており、慇懃で、それでいて容赦無く全てが痛烈な皮肉の対象とされていることがわかる。文章も明解であり、ある意味では痛快なエンターテインメントの要素もある。
しかし本書は決して文化人類学的な関心あるいは社会批判や文明批評を目的として著されたものではないのだ。本書の議論の対象は、あくまでも経済理論である、とヴェブレンは前書きで明らかにしている。従って、該博な民族学の知識を参照しながらも、経済理論の記述としての価値には影響しないとして、これらの典拠をあえて明記しない方針としているほどである。
しかし本書を主題である経済理論の議論として読み解こうとすると、経済学史的な背景知識の不足もあり、なかなかに難解な書物である。そこで手引きとして「現代アメリカ経済思想の起源-プラグマティズムと制度経済学(高哲男)」を参照した。
制度学派的経済学
ヴェブレンは制度学派の事実上の創始者とされる。制度学派(institutional economics)とは、19世紀末から1920年代頃にかけて活躍したアメリカ経済学の一派であり、「社会的な行動様式、集団的な活動などから経済活動を捉える方法論を提示した。」とされている。これは従来の古典派経済学が依拠する「経済人」概念や価格均衡論に対する批判的な立場を示す。ヴェブレンは「有閑階級の理論」で、衒示的消費が人類史における思考習慣が累積的に発展した「制度」の一部であることを示しており、描き出された有閑階級の生活様式は「経済人」概念への反証としての批判なのである。均衡論はあくまでも「均衡」に収斂する力の存在証明に過ぎず、本書で描くような長期的な人間性や社会システムの形成や変動を説明することは不可能であることを明らかにしている。
ところでヴェブレンが制度学派の「事実上の」創始者とされるのは、ヴェブレン自身が「制度経済学」という用語を使ったことがないからである。一方で、ヴェブレンはアルフレッド・マーシャルが主導したケンブリッジ学派の経済学を「新たな古典派経済学」と呼んでいた。これは彼らが制度的な発展の研究には距離を置き、均衡論的な研究に重きをおいていたことから、古典派経済学の限界を負っているとの批判的な見方に基づいている。
進化論的経済学
ダーウィンの「種の起源」が出版されたのは1859年だが、その進化論的世界観は幅広い学問分野だけではなく思想・哲学界にも大きな影響を与えた。特に「無目的的進化」あるいは「事実に即した挙証matter of fact」を重視する点では、プラグマティズムもその世界観を共有すると見ることもできる。学問分野においては探究と正当化には多くの共通する目的が含まれるとしても、全体を支配する真理と呼ばれるような目的があるわけではない、ということを意味する。このような真理の追求という呪縛から解き放たれたことは、学問の展開に大きな自由度と創造性を与えたと考えられる。
経済学会もその例外ではない。ただし、当時の米国経済界に直接の影響を与えたのは、イギリスの社会学者であるハーバート・スペンサーの進化論、ソーシャル・ダーウィニズムであった。スペンサーの社会進化論には、個人主義的な自由主義思想を背景に、社会の移行の中に社会発展の「真理」を見出すという功利主義的な進歩思想という側面があった。また、生物による環境への対応のプロセスを「均衡化」と捉え、社会進歩をそれと同一視していた。スペンサーの社会進化論(ダーウィンの進化論ではなく)が米国経済界で受容されたのは、当時の米国における産業化と巨大企業の出現を背景に、「適者生存」の進化論が資本主義的競争を社会進歩のプロセスとして正当化する、と捉えられた側面があるからである。
ヴェブレンはこのようなスペンサーの理解に対しては批判的であり、本書ではスペンサーの社会進化論を「制度進化の理論」として再構築した形で示している。ヴェブレンは進化について、「生存のための闘い」を通じた淘汰の過程であり、外的な「環境」に対する「強制的な適応」と「最適な思考習慣」の自然淘汰のプロセスとして捉えている。この点では、スペンサーの社会進化論の枠組みを利用していると言える。一方でヴェブレンは、こうした環境の変化への適応による思考習慣が累積的に発展したものが「制度」であると捉えている。このような「制度」はつねに過去の過程の産物である以上、現在の状況に完全に適合しているわけではない。従って、「制度」そのものが変化と発展を生み出す要因を内在していることになる。ヴェブレンはこの点において均衡論的な理解とは明確な一線を画し、「制度は変化し発展するという事実ほど重要なことはない」と強調する。
同時に、逆説的ではあるが、制度の適応の主体が人間であることから、制度すなわち人間の思考習慣の変化を遅らせ安定化させる作用が存在することもヴェブレンは指摘している。つまり人間の思考習慣は、「環境が変化を強制しない限り、無限に持続する傾向を持つ」のであり、社会的惰性や心理的惰性すなわち保守主義の要因となるのである。また思考習慣の変化を強いるような環境の変化(例えば、革新的な技術の出現)が発生した場合においても、その適応の過程において、過去の精神態度への「退行」(例えば、革新を受け入れることを拒絶)という逆説的な「進化」も現実には往々にして起こりうるのである。このような環境の変化への適応において過去の思考習慣との距離によって「退行」ないし「進化」と位置付けることも可能ではあるが、ヴェブレンはここに何ら特定の価値を持ち込むことはしないと言明している。(もっとも、これはヴェブレン流の言い回しであり、有閑階級の現状維持による利得や元来の本能的偏見を保守的バイアスの要因としているなど、立場は明らかであるが。)
このように社会進化における自然選択についても、安定化選択と方向性選択の視点から論じている点は、ダーウィンの進化論の本質を理解した議論の展開と言える。進化とは、あくまでも環境の変化への適応であって、必ずしも進歩を意味しないというヴェブレンの理解は重要である。ヴェブレンは、徹底した進化論の立場から、社会進化の過程を批判的に分析することが科学としての経済学の課題であるとの立場を貫いている。この点については、実用的な政策理論を研究する経済学者からは高い評価を得られなかった要因でもある。しかし、社会制度は人間の思考習慣であり、思考習慣を変えることで社会制度は改革可能との理解は、当時の経済学者に受け入れられたのである。