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第3章 なぜいまサーバントなのか?

なぜサーバントに注目するのでしょうか?

なぜ熱心にサーバントとしての歩みを勧めようとするのでしょうか?

その理由をお伝えします。ひとつは社会的な理由、もうひとつは宗教的な理由、最後は私の個人的な理由です。

社会的な理由「競争社会が限界に達しているから」

私たちの社会は、競争社会です。人と人とが競争し、強い者が上になり、弱い者が下になる。そうやって関係が決まる社会です。上に立つ人は優秀で力があり、下につく人たちの力を利用して、よいことを実現する。その見返りに多くの報酬を受けることができます。一方、下につく人はどちらかというと力が劣っていて、上に立つ人の命じたことを行う。それによって、わずかな報酬を得ることになります。多くの報酬を受けて、幸せになるためには、序列の上に立つことが必要です。

ところが、競争を前提にしたこのような社会のあり方が限界に達しているように思えます。

・上位の人がますます裕福になり、下位の人がますます貧困に悩まされる。格差が広がり、序列を覆すことがとても難しい、という格差社会が定着してしまいました。

・権威はかろうじて受け入れられていますが、上に立つ人が尊敬されていません。従っている人たちの不満がたまっています。

・社会は豊かになり、個性の豊かさが重んじられる雰囲気が広がりました。力のあるなし、上下の関係が、大きな意味をもたない面も出てきました。

・上に立つ人に無条件に従うことに疑問を感じる人が多く出てきました。インターネットによって内部告発も多くなり、失脚した人たちもいます。

・力ずくの圧力で人を従えようとして、ハラスメントが横行しています。ブラックな企業体質もあちらこちらに見られます。

・上司と部下の協力関係や信頼関係が失われています。相手を蹴落とすことでしか幸せを手に入れることができません。

・今日手に入れた幸せは、明日には誰かの手によって奪われていくかもしれない、と警戒し合います。誰の得にもならない、足をひっぱりあう社会に行き着いてしまった感じです。

・親族や家族間の争いも絶えません。

・友人同士の関係も、どれだけリア充なのか、「いいね」の数の競争です。

・地域の住民同士の関わりはうすれ、下手に声をかけると逆に危害を加えられる危険すらあります。

・学生たちの間でも、スクールカーストと呼ばれるような階級があります。

・困っている人を助けようという善意も、人の目をはばかってか、本当に必要な人には届きません。

・家庭内の虐待は現世代から次世代へと連鎖していきます。負のスパイラルから抜け出ることが難しい状況です。

こういった競争社会の限界の中で、サーバントには大きな可能性があります。たとえ上の立場でなくても、自分から率先して仕え、上の人にも下の人にもよい影響力をもつことができる。そのことで、まわりも自分も幸せになる。そういうサーバントが多く増えていったら、競争社会の限界に希望の光が差してくるでしょう。サーバントに感化され、仕える仲間が増えて、お互いを思い合う関係が広がり、コミュニティが変わっていくのではないでしょうか。今よりも信頼関係が深まり、自発性がものをいうようになり、助け合いの精神が社会の根底に広がっていきます。

私は、競争社会の限界の中で、サーバントが持つ可能性に期待しています。

宗教的な理由「仕えて生きることを教えるキリスト教」

もう一つの理由は、私がクリスチャンであり、キリスト教の牧師であることと大きく関係しています。

仕える生き方の話をすると、よく理解してもらえます。そういう生き方をしたいと求める人がたくさんいます。クリスチャンの方々だけではありません。クリスチャンでない方々も賛同してくれます。実際にサーバントについて学び、実践しているすばらしい方々にも、たくさん出会ってきました。人を幸せにする生き方の魅力は、多くの人の心に訴えかけるものだと確信しています。

聖書には、まさにサーバントの歩みが教えられています。イエス・キリストが教えたのは、仕えることでした。人々に良いものをもたらし、社会を積極的に作り変えていくために、それぞれが能動的な役割を担っていく生き方です。

イエス・キリストは、その仕える歩みを実行した模範でした。象徴的な場面は、弟子たちの足を洗う場面です。弟子たちと最後の食事をする前に、イエスは弟子たちの足元にひざまずいて、彼らの足を洗いました。本来ならば、食卓に仕えるしもべが行うべきことでした。教えを説く教師であるイエスが、仕える者の姿をとって弟子たちの足を洗うとは、絶対にありえないことでした。弟子の足を洗ったイエスは「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません 」と教えました。

私は、キリストの模範にならって、仕える者になりたいと願っています。また、キリスト教の牧師としてこの教えを人々に語り伝え、共に仕える者たちになることを励ましています。私にとって一番大切なライフワークです。
私は、キリスト教の牧師だからこそ語れる視点で、サーバントについて紹介したいと願っています。

個人的な理由「人を従えることが性に合わない」

最後は、私の個人的な理由です。私は人の上に立ったり、指導的な立場になったりすることが多くあります。しかし、どうも上から人を従わせることが苦手です。

小学生、中学生のときには学級委員もやりましたし、演劇会では主役もやりました。自然とみんなの先頭に立つことが多かったように思います。ところが、地元を離れて、広い世界に出ると、自分よりも能力のある人たちに出会いました。上には上がいました。狭い世界なら一番でも、広い世界なら一番ではありませんでした。当たり前のことです。

ところが、下で仕える立場になっても、上の人の言うことを聞けばいいや、とも思えませんでした。もっとこうしようというアイデアを出したり、みんなの役に立つ行動を取ろうと考えたりしていました。下にいながらも、全体に対する役割を自覚していたのです。競争や上下関係に支配されない視点、関わり、影響力を持つようになりました。私にとっては、上で権力を奮って人々を従えるよりも、対等、あるいは従う立場で影響力を発揮することが、自分らしい生き方だと自覚しました。

関わるみんなが幸せであるように、それが私の願いでした。そのために自分ができることをしよう、と考えてきました。そんな生き方を、サーバントと呼ぶことを知りました。興味をもって学んでみると、あらためて自分の行動の軸を発見することができました。

あわせて、人のためにがんばってくれている人が燃え尽きたり、報われずに夢をあきらめたりしていく姿も見てきました。なんとか力になりたい、と願いながら、何の支えにもなることができないでいました。私の中に、同じ思いをもってがんばっている人と励まし合いたい、支え合いたい、という気持ちが、いまでも強く残っています。

サーバントについてこれほど熱心に書くのは、自分自身への、そして大切な仲間への応援歌だからです。


私がサーバントについて熱心に勧める三つの理由でした。サーバントとして生きることに、大きな可能性と本当の生き方があると信じています。次の章から、サーバントが大切にする考え方を紹介します。

さぁ、いよいよ旅の始まりです。サーバントの旅に出かけましょう。

ほめられると調子に乗って、伸びるタイプです。サポートいただけたら、泣いて喜びます。もっともっとノートを書きます。