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東大刺傷事件:人を育てるのは家族だけではありません。

教育虐待という言葉が拡がり、その一角にいる私ですが、
15日に起きたこの事件について実は今日までよく知らず、
4日後の今、特別の情報は持たないまま、
30分ほどネットでいくつかの情報を得てこれを書きました。

名古屋小六受験殺人事件のことをnote に書いたときは、

いくつかの新聞社からの取材申し込みがあり、
事実関係に関する情報もいただいたので、
それに基づいて解説を書くことができましたが、
今回はまだそういう情報がない中で、
何かを書くことは時期尚早であると思っています。
(もし、後に正確な情報が集まれば、
 しっかりと分析したいという気持ちはあります)

ただ、ネット上で、憶測、の記事が多数書かれている状況を見ると、
そしてそこに親が原因であるかのように書く人たちが集まっていることや
教育虐待ではないかと書いている人たちがいることを見ると、
いたたまれず、それは、違いますと言っておきたいのです。

教育虐待は、親によるものですが、
おそらく今回の場合はそういう事例ではないのではないか、
と私は思います。

一時的にそういう状態があったかもしれません。
でも、親であればその位はあるかもしれませんね、という程度のこと
であったのではないか、と思います。
(ここは事実関係がわからないので、憶測にすぎません)

もちろん、
ほとんどの子どもは家族の中に生まれ、家族の中で育ちますから、
その影響を大きく受けています。
でも、人は家族の中だけで育つものではないのです。
兄弟姉妹の性格がそれぞれ違うように、

その時の家族や親族を取り巻く社会状況や、
養育・教育機関で出会う人々(先生や友達)、
部活や塾や習い事で出会う人々、
漫画や書籍を含む各種のメディアや
ネットの中にいる誰かも、

人の育ちに影響を与えます。

(ここに地域が加わるといいのですが、
 今は地域がないのが実情で、大きな問題です)

その中で語られていることの何かが、
何かのタイミングで重なり合って、
人に大きな影響を与えていくのです。

だから、事件の犯人になった彼がどう育っていったのかは、
丁寧に聞き取りをしていかなければわからないでしょう。

私がこれまでに出会った子どもたちの中にも、
 点数こそが人間の価値を決める、とか、
 ○×以外に答えはない、とか、
 試験に受からなければ人生が終わりだ、
と信じている子どもたちが少なからずいましたし、
(私が出会うことができたら、少しずつ変わっていってほしいなと思って、
 丁寧に説明していました)

 点数を取らせてください、勉強させてください、お願いです!
と叫ぶ子どもたちもいました。
 勉強を始めると身体症状を出す子どもも、
 自己コントロールができなくなる子どももいて、
 でもその子たちは自分では勉強を止めることができなくなっていました。
いわゆる強迫症状になっていたのです。

(厚生労働省:強迫性障害では、自分でもつまらないことだとわかっていても、そのことが頭から離れず、わかっていながら何度も同じ確認などを繰り返すなど、日常生活にも影響が出てきます。 意志に反して頭に浮かんでしまって払いのけられない考えを強迫観念、ある行為をしないでいられないことを強迫行為といいます)

今回の場合は、もしかしたら(もしかしたらです)、
「勉強しなければならない、医学部に入らなければならない」というような強迫観念を持ってしまい、その観念に脅かされ、不安に脅されていた状態になっていたのではないかと思います。

(ただし、彼の場合は、つまらないこととわかっていなかったと思います。
 だって、勉強することはいいことだ、と社会全体が信じているのですから。少なくとも彼の周りでは、どれほど遊び惚けていても、できるやつはすごい、という風土(クライメイト)があったと思います)

周囲の人たちが、ちょっと「勉強しなさい」と言っただけでも、
「合格するといいね」と言っただけでも過剰に反応し、
言わなくても言われたような気になり、自分を追い詰めてしまう。
そういう精神状態になっていたのではないかと思います。

どうしてそんなことになったのか。

真面目でいい子で、人の言葉を字義通りにとってしまうタイプの人の場合(もちろんそういう性格も発達途上で作られていくわけですが)、
「社会で言われていること」
を値引きして聞くことができないことがあります。
そういう人は、
社会にあふれている「成績がいい人がすごい」とか
「勉強ができない奴はダメだ」という言葉をそのまま真に受けて、
自分をその型に入れなければ破滅してしまうと思い込み、
どんどん自分を追い詰めていってしまいます。

いやそんなことは大したことではない、と思いたくても、
今度はそう受け流せない自分はダメだ、と思ってしまう。
その位、自分の中に、
自分はダメだという感覚がこびりついていて、
それを打ち消そうと必死に生きて、
それがうまくいかなくなって絶望感が生まれて、
そこから脱却できるならば何でもいい、あらゆることをやってしまおう、と
世間一般の人からは了解不能な思考に囚われて、
そういう思考に頭を乗っ取られて、認知が歪んでしまい、
自暴自棄になってしまうのです。

事件が起きてまだ4日しかたっていない中で、
あやふやな情報の中で書くことですので、
引用とか、そこからの論述とか、そういうことは控えてほしいのですが、

多かれ少なかれ、このような状態になっている子どもが
実は彼だけではないということ、
それが日本のこの競争社会の中で起きていること、
それこそが社会的なマルトリートメントと私が呼ぶものの結果であるということは、間違いがないと思います。

正体を知りましょう。
そして対応しましょう。
予防しましょう。
日本社会が子どもたちに対して起こしていることなのです。
親が問題とか、子どもが問題とか、
そういうレベルで議論している限りにおいて、
またどこかで同じようなことが起きるでしょう。

※ なぜ、彼がもっと早く問題であるとみなされなかったのか。
それは、勉強をすることに囚われている彼の姿を
「問題である」「病気ではないか」とみなせない社会があったからでしょう。
何とかそこから救い出さなければということにならなかったからでしょう。

オランダに滞在していたとき、
「勉強ができるということは、他のことができないということを意味するかもしれない。リスキーな状態だ」とオランダでも最上位と言われるギムナジウム(中高)の校長先生に言われたことを思い出します。
オランダではむしろそのために、勉強だけができる子どもたちが苦しんで、そういう子どもたちを集めた学校ができていましたが、日本では、勉強ができるという理由で苦しむ、という状況は、隠れて見えないものになっているように思います。

※追記(1月20日)
いただいたコメントから思いついたことを追記します。

子どもたちの純粋さは教育に利用されやすいです。
大人たちが強調すれば、
小さな子どもたちの中には素直に言うことを聞く子たちも多いです。
いい子になりなさい、と言う大人たちの言葉を鵜吞みにして、
イヤイヤを言わない「いい子」たちが
小学校に入って
「スタンダード」「めあて」に自分を合わせて生きるように言われます。
きちんと勉強に向かう姿勢を身につけなければならないと頑張ります。
その子たちが、のちのち、
主体性がない、とか、自立しない、とか、覇気がない、と言われて、
今度は、主体性を身につけろ、とか、柔軟に自由に生きろ、と言われるのです。
今、そんな「素晴らしい実践」をして、
「いい子」を輩出している学校から、
子どもたちが自己表現をしないんです。自立する力が弱いんです。
どうしたらいいんでしょう?という相談を受けています。

※ 追記2
コロナ禍で、他との接触が少なく、親の言うことを聞いて素直にすくすく育っている小さな子どもたちが多いようです。とてもいい子たちであることが気になっています。




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