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リフレクションにつきあう人

教員のリフレクションやセルフスタデイについて考える機会が2日続いた。

その2日とも、「メンターが欲しい」「リフレクションにつきあってくれる人が見つからない」という先生たちの声が響いて、うーん??と思った。

幸いなことに、私には、何か困ったり、わからなかったり、整理したいことがあったときには、話につきあってくれる人たちがいる。なんて幸せなことなんだろうと改めて思う。

いろいろな想念や感情を処理しきれないときに自分を出せるというのは、
私が生きていくためにとても大事なことだ。

そういう人のことを何と呼ぶんだろう?
友だち、かな。そうなんだけど、でも、もう昔だったらとっとと退職、という年齢になって、相談相手は同世代もいるけれど20代だったりもして、一言で言い表せない。ま、人間関係だからね。

さて、自分のことはとりあえずおいておいて、
ここでは、教員に寄り添う人のことを何と呼ぶかについて、整理してみたいと思う。

今、教員のふりかえりに寄り添う人のことを、
伴走者、メンター、クリティカルフレンド、スーパーヴァイザー、指導教諭、などと呼ぶ。ネットで検索すると、いろいろに解説されている。

伴走者:本来の意味は、視覚障害のあるマラソンランナーに伴走する人のこと。近年、石川晋氏が、フリーで教員の授業を見てコメントをするという仕事を編み出して、自分のことを伴走者と言っておられたが、いろいろな人がこの言葉を使うようになった今、新たな名称を考えておられるらしい。

私の個人的感覚としては、走る(歩む・生きる)際に横にいて、ずっと長期に自分と同じペースで走ってくれる(歩んでくれる)人。
関係性のいい配偶者とか、チームで仕事をするときの信頼できる相棒とか、ある程度のロングランを継続的に見守ってくれる人。

自分には当然でこぼこがあるし、どの道を走っているかわからなくなるし、自分で走るペースすらつかめなくなることがあるけれど、伴走者がいれば、それとなくぼんやりと見える霧の向こうを目ざすように励ましてくれたり、トボトボと歩いていてもつきあってくれていたりするっていうそんな感じ。

メンター:ある分野において自分より経験があって、行き詰ったときや困ったときに、やや上から手を差し伸べてくれる人。

ケンブリッジの辞書、によれば、自分より若かったり経験が少なかったりする人に仕事についてアドバイスしたり支えたりする信頼できる人、という感じ。初心者にメンターがくっついてくれる、というのはよくあるパターンで、初心者でなくても、迷いがあるときや、方向転換したばかりのとき、新しいことにチャレンジしたいとき、今までとは違う考え方ややり方を学びたいときにいてくれると心強い「その分野のベテラン」。英語圏で長期の教育実習の時の指導教諭はメンターと呼ばれるし、日本だと主幹教諭が学年の先生たちにアドバイスする、という場合もメンターと言える。基本的には、ある程度の期間、寄り添ってくれる人のことで、一回限りということはない。 

クリティカルフレンド:これは教員のセルフスタディ(という自分を題材とする研究の方法論のこと)において用いられる言葉で、自分の学校や授業などにおける言動について、率直かつ自分にとって有用な、他者の視点からのコメントをくれる、フラットな関係の人のことを言う。
 リフレクションにつきあってくれる人をクリティカルフレンドというかというと、そんな学術的見解はないのだけれど、昨日のセミナーで希望的に私が使った(笑)。
 セルフスタディにおいて、時には、教える人に教わる人がクリティカルフレンドになることがあるほど(大学教授のクリティカルフレンドが大学院生とか)、専門的見地というよりは、自分の持っていない、あるいは気づきにくい別の視点から話してくれるということが大事になる。
 もちろん、メンターのような人がクリティカルフレンドになってくれれば、知的にも情報量的にも素晴らしい。でも、自分の成長に役立つと自分が感じられれば、特に専門家である必要はない。
 ただ、クリティカルに(より客観的に、一呼吸おいて、問いを出してくれるような)かつ、愛情をこめて成長を見守ってくれる存在。単なる批判者、でも、慰めてくれる相手、でもない。
 だから、リフレクションのときは、クリティカルフレンド的な接し方の人が役に立つ、と私は思う。
 実際、フレット・コルトハーヘン氏のワークショップでは、どこの馬の骨ともわからない隣の人と組んでリフレクションの練習をすることがあって、そのとき、相手の人は、目の前にリフレクションの8つの問いを置いて、それを埋めるように話を聞いていく。つまり、より客観的に枠に沿って一つずつ聞いていく人、が、役を果たしてくれるというわけ。それは、ある限定的な状況において枠組みに沿って行うワークの中で、クリティカルな姿勢を取ろうとする努力をしている人が相手をしてくれるということで保障される。
(これだけでいつも深く本質的な気づきが得られるかというと、私はちょっと難しいのではないかなと思っている。私は心理臨床家だから、同じ問いでもそこに意味付けをしたり効果的な順番を考えたりするけれど、トレーニングを踏んできていない一般の人が同じことができるとは思えない。でも、フレット・コルトハーヘン氏のワークショップが世界各国で引っ張りだこなのは、きっと普通の人でもある程度の成果を上げることができるからなんだろうと思う。実際フレットのワークはすばらしかったから)

と、いうわけで、単発のこともあるリフレクションをするときには、クリティカルフレンドの姿勢、がいいのではないかな、というのが現時点での私の見解。これはフレンドと言っても、いわゆる私生活における友達、というのとはちょっと違って、ある点に関してのリフレクションにつきあうという契約関係(一時的でも)になる。

さて、では、コーチはどうですか?という質問があったので、こちらについて触れておくと、

コーチ:ある分野において自分よりも優れているというよりは、自分のあり方、過ごし方、やり方全体を見ていて、よりよい形を提案する人、あるいは、ある分野において自分よりも優れた実績を持っているからこそ、自分の現在位置についてよりよい提案ができる人。
 というわけで、リフレクションは自分やその場にいる対象の言動や思考、感情、欲求を丁寧に自分で確認・吟味していく中で行われる「自分による振り返り」なのだけれど、コーチはどちらかというと「外の人」で、「外の観点」を持ち込む人、教える人、気づかせる人。導く人、という印象があって、もちろん、最上級のコーチはどんな役割でも果たすことができるのだろうけれど、すべてのコーチがコーチングの姿勢で「自分自身で行う」リフレクションにつきあえるというわけではないように思う。

 また、アドバイザーやスーパーヴァイザーは、振り返りを行う人より上級者による上からのアドバイス、管理監督、だから、リフレクションにはそぐわない(もちろん、最上級の方であればきちんと配慮するだろうから、可能だと思うけれど、依頼する側が緊張してしまいそう)。

 さてと。
 簡単にまとめるところまではいかなかったけれど、とりあえず書いてみた。また、改訂版、簡易版を書くこともあると思うけれど、今日のところはここまで。

 ちなみに、リフレクションするときに寄り添ってくれる人は、一人である必要も長期である必要もなくて、その時のリフレクションにふさわしい人がいればそれでいい。親友、を見つけるわけではないので、先生たちが「メンターが欲しい」「リフレクションにつきあってくれる人が欲しい」ときには、とりあえず、誰かに頼んで、方略(ALACTモデル)に従ってとお願いして、何回かやってみればいいのではないかな、と思う。


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