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詩の勉強会

一か月 詩について考え、それから今回勉強会に参加してみて
少しわかったことがある。
それは、勉強会参加者の大半にとって
「現代詩」というものが日常生活や経験をさほど重視しない
というか「重視しすぎない」というか。
それは「題材のひとつ」または「きっかけ」であって
けっこう「創作」らしい
そうであるから、比喩とか象徴 というのが通りやすいのか?

私自身が馴染みやすい と思う詩は
日常生活と地続きだと思える詩、心理的に共感できる部分がある詩 
ということになりがちである。
どこからどこまでが創作なのかはよくわからないので
わかりにくくない詩も多いのではある。

ほぼ物語みたいな詩を読んだら、こんな詩を書けるなんて と
作者を尊敬するだけである。

今回、「ほぼ創作(ほぼ物語)」の詩について
「まだ手ぬるい」と先生が言って、作者は「創作に逃げた自覚がある」
などというやりとりがあった。
創作の現場が厳しすぎてドン引きである。尊敬しかない。

今回はひーひー言いそうになりながら、頑張って予習した。
タイプの違う20編近くの詩を「流し読みでなく」読むのはなかなかしんどい。小さい字で罌粟とかあって「けし」と読むのだ とすぐには思い出せなかった。電子辞書をどこにしまい込んだだろうと真剣に考えてしまった。
「創作」というか「物語か」と思うその作品は「わかるけどわからない」というものだった。微妙なので音読したのだった。
(作者の厳しい姿勢に背筋が伸びるのである)

音読する作品もいくつかあって、読みやすいかなという作品があって
「わかるような気がする」作品があって。

油断した。全然理解できていないと知った。

まだまだまだまだである。


どんな詩を好きか というのはいろいろあるだろうし
私自身、自分が好きだった詩と同じような作品を
書いているわけではない。
そうなってしまったというかこれしか書けないというか。

自分の時間しかない中で、ゲームをしたりいろいろ逃げているのだけれど
頭の中でこだわり続けている場所もあって
深まっていく部分もあるらしいとわかった。
自分を信頼するとは そういう部分を信じることからかも。




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