川を見ていた

彼はベンチに座り、
目の前を流れる川をじっと見ていた。
 
いつからそこにいたのだろう。
 
気付いたのは去年、
その道を通り始めた夏の入り口あたりである。
 
世間で言うホームレスというくくりに入る男である。
 
川添にある遊歩道の桜の木の下のベンチ。
 
私はひそかに彼に
「木陰(こかげ)さん」という名前をつけた。
   
私はその遊歩道と川の間の道を
スピードを落とすことなく
車で通り過ぎるだけである。
チラリと横目で存在を確認して。
 
冷たい雫が濡らす朝も
暖かな日差しが降り注ぐ午後も
暗闇に包まれるときも
静かに雪が舞い降りる日も
いつも彼はそこに座って川を見ていた。
 
目の前には大きな橋があり、
その下に行けば雨風はしのげる。
 
川をずっと下って行けば
同じような人たちが
集まっている場所もある。
   
それでも彼は孤独を選び
少し小高いその場所を選び
ただ川の流れをじっと見ていたのである。
   
木陰さんがいなくなった。
黒くて大きな傘も
ふたつくらいあった大きなバッグも
全部なくなっていた。
 
あたりまえのように。
最初からそんな男などいなかったかのように。
   
川の流れに何を思っていたのだろう。
あるいはもう何の感情も持っていなかったのだろうか。
   
ベンチにはもう何もない。
   
「無」だけがそこにある。


2012年3月2日 金曜日 古い日記から


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