Jazzとの出会いとミナミのがんこ寿司
Jazzとの出会いは、中学生の頃だった。
引っ込み思案だけど、ちょっとお調子者だったこどもの頃のぼくは、学校がキライということはなかったけれど、お勉強があまりできなくて、授業はキライ。特に算数とか数学とかが苦手で、母親は心配していた。
「あんたもうちょっと勉強しないと高校受験だってあるし、このままじゃマズイんじゃないの?塾にいく?」
いやいや
こっちは落ちこぼれくんで、授業なんてたのしい時間じゃなくって、先生から指されたらいつも答えに窮するんだよ、塾なんてさ、また、ほかのぼくより勉強のできる人の中に入って、せっかく居づらい空間の教室から帰ってきたのに、またイヤな思いをするなんて、そんなのかんべんしてほしいよ。
だけど、親としては心配する。勉強できないと将来困るんじゃないか?って。
将来って言ったってね、こどもはいまが一番なんだよ。
とは言え、いまなってみれば親のきもちはわかる、そりゃそうだ、だって学歴社会な高度成長期。同い年のこどもの数だって170万人、それっていまの2倍以上。
当時の風潮としては、やっぱりある程度の学歴をって考えるのが親心かも。
そりゃね、いまなら違う道も考えられるかも、とも思うけど、手先が器用なわけじゃないから、職人には向いていないし。それとも長年やればなんとかなったのかな?
個別指導(今で言う)の先生に教えてもらうことになったのだ
そんなこんなで、個別に教えてくれる家庭教師的な先生を探していたらしくて、(やっぱりほかにもそんなこどもがいたのか)誰かの紹介で近所に住む国立大学一期校(古いなあ)の大学生に、その家は通って、数学を教えてもらうことになった。
数学を教えてもらっていたけど、全然身に付かなくって、代わりにハマったのがJAZZ。
きっと、大学生先生も、あまり勉強に身の入らないコイツ(ワタクシ)には、勉強だけではいかんと思ったのか?雑談の中で好きな音楽の話になって、大学生先生が好きだった音楽を教えてもらったというわけだ。
勉強はそこそこにChick Coreaとの出会った
JAZZといっても、大学生先生が聴いていたのは、当時クロスオーバー、少し経ってからフュージョンと呼ばれたエレクトリックジャズで、彼のお気に入りはチックコリアだった。
スタンリー・クラーク、スティーブ・ガッド、アル・ディメオラ、ジョー・ファーレルなどなどを知ったのはこのバンドでだ。
スティーブ・ガッドはサイモン&ガーファンクルの来日公演にも来ていたし、アル・ディメオラのアコースティックギターからパコ・デ・ルシアを知って、フラメンコギターに興味を持って、近所にあったスペイン料理店でスペイン料理との出会いとか、ぼくにとって具体的な”何か”にはなっていないけれど、おおげさにいえば、自分の人生において、受けた影響は結構大きい。
チック・コリアは、4回はライブに足を運んだし、就職で大阪に暮らしはじめて、ミナミでJAZZ BARに飛び込んで、そこのオーナーと断続的でも生涯にわたって交流を持つことも、彼が大好きなフィル・ウッズを知ることもなかった。
※脱線:Phil Woodsは、チャーリー・パーカーの後継者とも言われたアルトサックスプレイヤー。
ビリー・ジョエルの「素顔のままで」でのアルトサックス演奏がフィルだったということは、35年前にこの店に通って知った事実。
人生は偶然の積み重ね
つまり、勉強がきらいで、母親が家庭教師を見つけてこなければ、ちがった人生を歩んでいた、ということ。
そりゃね、おおげさですよ、そのとおり。
だけど、人生ってそういう偶然の積み重ねだって、最近考えるようになったのだ。
もう会うことはないかもしれない人と会ってきた
先週、2020年にくも膜下で倒れて、臨時休業にしたままだった店をいよいよ閉めることにしたという話を聞いて、そのJAZZ BARオーナーに会いに行った。
カートがないと歩けない状態で、話していてもちょっとのきっかけで何の話題をしていたかわからなくなるような感じだったけど、相変わらず強気で、きっと迷惑をかけているジジイなんだろう。
1月はずっと入院していたらしく、その時は意識も混濁し、もうダメかと奥様は思っていたらしいけど復活。
会った時は口調もしっかりしていて饒舌で、年寄りらしく(70代後半・正確な年齢は知らない)繰り返しの話も多かったけれど、まあ、もともとそんな感じだ。
身体を悪くして不自由なせいもあってか、さらに世の中に腹が立つことが多いらしい。いちばんホットな話題は病院での自分の取り扱い方に腹が立っているという話だった。こんな病院いられるかい!と言って退院してきたとのことだったが、病院側もうるさいジジイは出てって欲しかったかも知れない。。。
あれやこれやの話の流れで、オーナー夫妻と3人で、かつて彼が常連だったミナミのがんこ寿司へ行くことになった。いちばんよく行っていた宗右衛門町の店はもうなくなったので、難波の店に行くことに。
長く通っているのでどの店にも知ってるスタッフがいるがんこ寿司は彼にとっても居心地のいい場所。難波店でも知っている職人や店員さんがいて、相変わらずの口調で話しかけ、寿司はあまり食べられなかったけれどラストオーダーの声かけをきっかけに、帰ることにした。
カウンターの職人さんや店長やお店の何人かに「元気になって、また来てください」と言われ、「おお、また来るで」と気分よく帰ったけれど、また来れるかどうかなんてわからない。きっと本人もそう思っていることだろう。
人生は長いようで短い、それは時間が経って年をとってやっと感じる事実。
まるで生き急いだように、事を成し若くして死んだかつての偉人たちは、その事実を知っていたのか。。。
凡人としては、いまさらながらに、これからの日々を大切にと思う1泊2日の大阪だった。
追記:それにしても春節の時期は街に中華系の人がたくさんいましたね。
いっぱいお金を使っていっぱいいろんな体験をしていってください。