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未完成の正義。

人と人が対話をするためには、お互いにその姿勢がなければならない。たとえばなぜそう思うのか、自分自身はどう考えるのか、両者が耳を傾けて口を開いて、対話は成立できるスタートラインに立つ。そうでなければそのコミュニケーションは、争いになってしまうかもしれない。まるで傾聴の姿勢はなく自らの意見を押し付け合う、という具体的な光景を、つい最近目の当たりにしたばかりである。

僕自身も「ああこの人と対話はできないなあ」と、あきらめることはしばしばである。決してネガティブな話ではない。その相手を罵りたいわけでもない。シンプルな形容として、実際にあることなのだ。テンションやスタンスも含めた自分との差異を感じて、対話の前提がままならないイメージである。

じゃあ僕は、どんな人との対話をむずかしく感じるのだろうと考えたとき「正義が完成されている人」だと思った。自らの価値観や感覚、それによる意見が揺るぎのない人。いやひょっとしたら内面に揺らぎはあるのかもしれないが、外から見て発せられるものが“つよい人”と、あえて表現してみよう。たとえばその人にとって僕の姿勢や声は、ふしぎでありちっぽけなものに感じられるのかもしれない。いや、そもそもの印象すら、あまり濃いものだとは思えない。

どうやら僕は「未完成の正義」を抱く人を、よく思っているようだ。まあ未完成とまではいかずとも、誰かの意見に耳を傾けてその正義を受け入れられるような、変化を厭わないしなやかな感覚を持つ人。気づけばそれは、僕にとっての理想のあり方である。類は友を呼ぶというけれども、まずは自分なりの対話の姿勢を示すことが、相性のよい人そしておもしろい対話を、呼び込んでくれるのではないかと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。