見出し画像

僕が表現(デザイン)の道へ歩むことになった話

能登半島の港町から大阪は太陽の塔の麓の街に流れ着いて、Webデザイナーとして独立して5年目、妻と2人暮らし。
ここら辺で一度、人生を振り返ってみる。なぜ僕がデザインという表現の道を歩むことになったのか。

表現というのは恥ずかしげもなく言うと、つまるところ承認欲求なんだなと思ったりする。

それはアーティストやミュージシャン、役者、しいてはデザイナー、ライター、カメラマンに至るまで。
私はこう考えている、僕はこう捉える、よし!それを世間に伝えよう。

どうやって?

絵を描ける、音を奏でられる、演じられる、作るのが好き、書くのが得意、ファインダー越しに切り取りたい、などなど。

みな多様な手段でそれぞれの居場所から世界へ向けて発信する。
どんなに人里離れた場所に居たって、インターネットさえ繋がっていれば誰かが自分の作品を見つけてくれる。
なので、私は確かにここに居るんだという存在価値を得ることができる。一人では決して得ることのできない、認められて初めて浮かび上がる自分という個体。

僕も類に違わず、そんな一人だったように思う。

十代、能登半島

現在は主に大阪で活動をしているが、出身は石川県の能登半島に位置する七尾市という街で育った。和倉温泉という温泉街があったり、日本海の港町だからお寿司が美味しい土地柄。

画像1

そんな街の中にあって僕はというと、幼少期から十代前半の頃までは少し内向的であまり自己主張をするタイプではなかった。
けれど文章を書くことは好きだったようで、紙の上で妄想を膨らませてペンを走らせ、決して外に発信されることのない物語をしたためていたり、はたまた自分以外の何者かになれるという視点でテレビの向こうの役者さんに憧れたり。

そんな折、高校時代にはサッカー部に入りそれなりに活発にはなった。チームメイトと一緒にボールを蹴り楽しいことも悔しいことも共有した。
それと同時に物書きも続けていて、授業中に妄想にふけって物語を書いては隣の子に見せたりして遊んでいた。中でも嬉しかった出来事は、クラスを代表して書いた卒業文集を先生やクラスメートから手放しで褒められたこと。投げ掛けられる言葉のすべてがそれまでの僕という半透明な個体の輪郭を縁取り、色を塗ってくれた。それは部活動でチームの一員として喜びを得るより、個として認められたという感触が実感できたのだと思う。

それでも高校卒業後の進路を考えるときに、物書きになるという選択肢は頭に浮かばず役者の方に興味を持ち始めた。
きっとそれまでとは全然違う世界を経験してみたかったのと、自己を表現することが苦手だったから台詞という言葉を借りて表現することにチャレンジしたかったのだと思う。

二十代前半、大阪

高校を卒業して芸能の学科がある専門学校へ通うために大阪へ出てきた。学校とは別に劇団にも所属し舞台に上がらせてもらった。大勢の観客の前で視線を浴びながら演じるという自分にとっての新たな表現方法。
いかに本番でトチらないようにするか、出番にだけ集中して余裕なんて全くなかったけれど、終演後に少なからず頂く嬉しいお声で「やって良かった、、」と安堵した。十代の頃の自分からは想像もできないような体験と成長を得ることができた。
学校で出会った音楽の道を志す友達とは、一緒に楽曲作りにも取り組み、歌詞を書きメロディーを考えることにも没頭した。

とにかくどんな方法でもいい、自分の想いを自分という人間をなにか形に残したかった。幼少期から抑え込んでいた自己の蓋をあらゆる形で解き放ちたかった。そんな空に漂うようなモラトリアムな時期だった。

画像2

けれどそんな時期も時間とともに自然と雲のように流れ去ってしまう。
音楽を作っていた友達とはボタンの掛け違いで離ればなれに、劇団の活動は経済的に大変で将来への不安も感じて退団してしまう。
それからはとくに目標も見つからずアルバイトを転々とする日々。アルバイト先の友達と遊び、彼女もできて、表現することはいつの間にかどこかに置いてきて、ただその日その日を遊んで過ごした。

二十代中頃、スペイン

再び表現したいという感情は突然やってくることになる。
自分でも予期せぬタイミングで、定められた過程の中で計画的に起こるものでもなく、本当に突然やってきた。

それまで交際していた本当に仲の良かった彼女との別れ。その失恋は自分の中でも大きな出来事で、ある種の転機となった。
とくにやり甲斐を感じていなかった当時の仕事と、大切な心の拠り所を失くした現実。改めて自分を見つめ直す時間が欲しくなって、その当時に勤めていた会社で有給を取ってスペインへ一人旅に出た。

画像4

目的は建築巡り。
壮大な建造物を見ることが好きで、国内では安藤忠雄さんや丹下健三さんなどの建築を巡り、写真集でもル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエなどの建築作品をよく鑑賞していた。スペインでの目的はサグラダ・ファミリアで有名なアントニ・ガウディ。
いい機会だと思って決めてから一ヶ月も経たない内に日本を飛び立っていた。それくらい何が掛け違えたのかわからない日常から脱出したかった。

バルセロナとマドリードにそれぞれ滞在し、ガウディの建築物が多く残るバルセロナでは見れる限りの建築物を見て回った。パーク・グエル、カサ・ミラ、カサ・バトリョ、それでもやっぱりサグラダ・ファミリアには圧倒され、目の前にある公園のベンチに座りながら半日ほどずっと見上げて物思いにふけっていた。目の前にある未だ建造中のサグラダ・ファミリア。その百年以上の長きに渡っていろいろな職人の手によって造られ続けてきた歴史。今は亡きガウディが表現したかった完成形とは、そしてそれを見届けることなく突如この世から去ることになった人生。

画像3

そんなサグラダ・ファミリアを眺めながら過ごす時間はあらゆる妄想に浮遊していく。
ここ数日、日本語を話していない日常。当たり前の言葉が通じない世界では自然と自問自答が増えていく。

自分は何者で、何を成し遂げ、何を失ってきたのか。
答えなど出ないような妄想を、それでも話す相手もおらず時間だけはあるから、永遠と妄想して自問を繰り返す。あくる日もあくる日も。

唯一、僕にメッセージを投げかけてくれたのは、イヤホンから流れるDef Techの「My Way」。本当にスペインに居るあいだ中、ずっとこの曲だけを繰り返しリピートしていた。

-----
夢と現実の狭間で 冷静と情熱の間で
リミットある one time 人生を満たされない日々もなんなくと
こなせる自分にまずなりたいと
思った時からすぐにtight
Fight highと right proud
持ち続けてもでも震える今日
どんなにふけ年老いても
これだけは忘れないでいてよ
まずマジ恥 劣等感 嫌悪感 人に対する嫉妬心
ハズすバシバシ 話し吐き出し
泣き出しそれで確かに
今日はめでたし でも明日からまた新しい日が始まる
Def Tech - My Way

二十代中頃、大阪

そんなスペインでの自分自身との濃密な時間を過ごし日本へ帰国すると、話せていなかった日本語での会話のチャックが解放され、それと同時にいつの日からか心の奥底に眠っていた表現欲の塊がケチャップのようにドバドバと溢れてきた。

なんだこれはと立ち止まるような思考すら脳をよぎることもなく、ただただ溢れてくる波に身を任せて没頭。いわゆるゾーンに入ったような状態でその時にできる限りのこと、物を書いたり写真を撮ったりし続けた。文芸コンテストに作品を応募したり、エッセイが入った自作のフォトブックを作ったり。

それは心の拠り所がなくなり、進むべき道もわからなくなり、また半透明に戻りかけていた自分に自分で色を塗るように。また、自分で自分の存在を確かめるように。

その時に応募した文芸コンテストでは、作品の一つが入賞して出版された。

波が落ち着いてきた頃、ふと考えてみても、このまま表現をすることを続けていきたい、表現することを仕事にしたい、そう思った。
その上でもっと表現できる幅を広げたい、頭の中に描いているイメージをそのまま形にできる技術が欲しい。
そう思い立ってから一ヶ月後には会社を退職し、デザインの専門学校に入学し直していた。

それが確か26才頃の自分だった。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?