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誰かのための言語化を。

言語化には、それなりの自信がある。ライターとして生きてきたし、というか今も仕事で取材して記事を書いているし、毎日このnoteだって書いている。それなりの自信というか、単純にほとんどの人より長く文字や言葉と向き合っている自覚がある。

ただ、どうも自分のための言語化ばかりに時間を費やしているなあ、とも思う。べつにそれがわるいことだとは思わない。むしろ調子がいいときは「それでこそ自分だ」なんて、ちょっとしたアイデンティティも感じる。しかしながら、これではいわゆるただの自己満足に溺れる、“痛いやつ”にもなりかねないなあとも思うのだ。他人から見た価値や文章の読みやすさを度外視しているわけだから。

もっと誰かのためになるような言語化に、取り組んでみてもいいのかもしれない。イメージとしては、情報として誰かの価値になるような、あるいは誰かの思いを言葉にするような。ここまで積み上げてきた自分のための言語化を、今度は自分以外の存在のために活かしてもいいのかもしれない。

きょうは中学校で特別授業の講師を務めてきた。2コマぶっ通しで、前半は職業講和、後半は体験学習。1年生の元気な学生さんを相手にコミュニケーションを取り、そんなことを考えていた。

いつもいつもありがとうございます〜。