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「しらんけど」のスタンスで。

最近知り合った兵庫出身の若者が、ふとした雑談の中で言った。「ああ『知らんけど』って関西以外の人も使うんや」と。僕は「しらんけど」とひらがなで表記したい。まあここはただの好みの話であるけれども、だいぶ市民権を得た言葉ではないかと思っている。たしかに発祥は関西であるし、関西弁でしか表し得ない独特のニュアンスだ。ただ、そんな“なにわのプライド”も相まって、やたら軽んじられているなあと感じてしまう。僕は、とても本質的な良い言葉だと思っているのだ。

すなわち「まあ私は知らないけどね」には、「あなたがどう思うかは別だ」という意味が含まれているだろう。僕にとっては、このコミュニケーションが心地よい。そして、人間同士の無理のない、いわば自然なあり方である気がしてならない。

僕は、高校時代の挫折を経て「他人が思う自分ではなく、自分が思う自分こそ」というアドラー心理学の感覚を自然と身につけた。人それぞれの正義があって然るべきだし、基本的に誰からも干渉されないものだと信じている。そう、気づけばまさしく「しらんけど」のスタンスで佇んでいた。

「いやしらんのかい(笑)」「でた、しらんけど(笑)」などと、しばしば揶揄されるようなやり取りを見かける。それはつまり、「しっている(気にかけている)関係性」をノーマルとする考え方だ。言い換えれば、「しらんけど」を冷たいと評する世の中。僕はこの風潮に対して、しったところで何が生まれるのだろうと首を傾げる。

助け合いや譲り合いの精神だろうか。そこに重きを置いた人の感覚や価値観は、どこへ向かうのだろうか。果たしてしあわせなのだろうか。これらのさまざな疑問や葛藤の最中に、「しらんけど」は活路をくれる。「自分で考えろ」と突き放しているようで、じつに本質的な言葉ではないかと思うのだ。

いつもいつもありがとうございます〜。