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先生が解決してしまう世界。

物心ついたときから、「先生に言うよ!」という脅し文句を知っていた。小学校低学年、いやもっと遡って幼稚園の頃から、だろうか。僕はあまり積極的に用いるタイプではなかったものの、“おともだち”の誰かが言っていた。

あの頃の僕たちにとって、お守りのような言葉だった。聞こえたり言われたりするとなんだか心がざわついて、簡単にそのパワーを信じられた。そしてほんとうに先生を味方に引き込むことは、問題に直面したときの価値ある選択肢のひとつだったように思う。

しかしながら、たとえばそこに当事者同士の対話はあっただろうか。僕の過去を思い返せば、まあなくはなかったのだろうけれども、その本質的な問題と向き合う以前に先生というカードが切られていた。ただ悪口を言い合うか、そもそも言い合いや話し合いにすらならないか。自分たち子どもが生み出した問題なのにもかかわらず、困ったらほっぽり出して大人に解決を求める。そんな世界を、たしかに僕は生きていた。

いったいどうすれば、あの頃から対話ができたのだろうか。すなわち「先生に言うよ!」なんて概念はなく、自分たちで向き合い、話し合って問題を解決できるような世界。幼い頃から問題と向き合えないような人間が、あるいは誰かが構って解決してしまうような世界が、今の社会にも広がっている気がする。僕の場合、どうやら物心ついたときにはもう遅くて、今はいったい何がどう作用していたのかと途方に暮れている。ただ、その背景や原因を探ってみたい。子どもの頃から対話ができる世界を、少しだけ夢見ていたいのである。

いつもいつもありがとうございます〜。