ビジネスパーソンとハンナ・アーレント

ビジネスパーソンという言葉を聞くと、ムズムズする。

ムズムズするたびに、ああ、これは自分の中のねじけた部分だなと思う。
ただ、なんとなく居心地が悪いような気持になってしまうのだ。

一般的にビジネスパーソンという言葉はどのような意味で使われているのだろう。「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」に置き換わったように、「看護婦」が「看護師」に置き換わったように、性差を考えて「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と呼ぶようになった…ただそれだけのことなのだろうか。

僕はどこか捻くれているので、「ビジネスパーソンは知っておくべき」と発信される各種情報だとか、「ビジネスパーソン向けの~」と冠したセミナーを見るたびに、なんとなく違ったニュアンスを感じてしまう。
その言葉の指すところは、職業人としての仕事をしている人、会社員全般、それを踏み越えて、その人そのものの人間としての属性を指定しているような気がするし、そこにわずかな選民意識も感じる(全ての働く人をそこに包含していないように感じる)。
その微妙なニュアンスに、居心地の悪さを感じるのだ。

話は変わって、これまで生きてきた中で、3人の友人から「ハンナ・アーレントが好き」と言われたことが有る。わかる。自分が本当にきちんと理解できている自信はないけど、「人間の条件」は本当に何度も読んだ。

ハンナ・アーレントこそ奴隷制を許容するような発言をした選民思想の塊ではないか、みたいな話もあるが、その論点に関しては個人的に全く違うと思っていて、過去を語るときに現代の価値基準を持ち出さなかったまでだと認識しているが、いったんそれは話がそれるから置いておく。

「労働」「仕事」「活動」の3つを人間の条件としてあげたアーレント。「労働」は消費財というよりは日銭を稼ぐための仕事、生活をするための仕事の部分を指すので、ほとんどの人の日々の仕事は「労働」であろうと思われる。

ビジネスパーソンという言葉が使われている多くのものごとに違和感を感じるのがここで、食事、睡眠、趣味、その他すべてが「労働」の生産性をあげることをゴールにしているかのように感じてしまう。生産性をあげるための食事、仕事で結果を出すための睡眠、就活に役立つ趣味…。
ビジネスパーソンであることに自分自身が飲み込まれそうな話であるように思ってしまう。

そしてまた、そのことを議論する場だけが活動であるかのような雰囲気を感じてしまう。まさにアーレントがいうところの、公的領域と私的領域がなくなり、社会的領域が現れその中でしか人が語られない。

「人間」ではない「ビジネスパーソン」として語られる何か、そこで語られている「自分らしい自分」は「What(どの企業の、どういう業種の、どういう職種の、何県出身の…)」を積み重ねたものでしかなく、けして「Who」にたどり着けない気がしてならない。

ビジネスパーソンであるまえにいち人間だ。食から休養まで全てを仕事に紐づけて語るスタンスでいる限り、自分が誰かの形が見えてくることは難しいように思う。

しかし、ここでこんなことも思う。

自分が大人になっても反抗期の子供のようなことを言っているなと。このような事を40になってもぶつぶつ言っているのは、精神的に未熟であるような気もしてしまう。

ただ、このような事を考えられる場、これは日々仕事に追われる中では成立しえないのではないだろうか。本来の活動は労働と担い手を切り離すことでしか存在しえないのか。

そんなことも決してないと思う。
でもどうしたら仕事を通してもそうしたことを語らい思索することができるのか?
そこは問題意識として持って生きてみたいといまは思う。

そしてこのnoteの中で、アーレントを引用しておきながら、「仕事」という言葉をアーレント的な「労働、仕事、活動」の中の「仕事」ではなくていわゆる一般的な意味でのジョブ、タスク、に近い意味で記載していて、非常に混濁文章になっており大変反省している。本来このあたりは整理してものを書くべきだ。

きっとそこはビジネスパーソンとしての力が足りていないのだと思います。

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