見出し画像

キロンとはやけに自我が色濃くでる場所なのかもしれない

これは毎日書いているエッセイではありません。
が、明確な境目もないと思うのでなんとも言えません。
でも、わたしとしては違うと思ったのて違うという前置きをしたくなりました。
伝える側の設定の違いが、受け取り側の設定の違いにも影響すると思うので、設定さえしていればもしかしたら言葉は不要なのかもしれませんが、それを超えてわたしの中にこのことは「伝えたい」が出てきたのでまずはそれをお伝えすることにしました。

なぜなら、それをしないまま話を進めると、「伝えたい」によって「伝える」或いは「伝わる」にハウリングが出ると思ったからです。
その理由は、ふと浮かんできた言葉遊びのようなポストから(リンクは最後に貼っておきます)。

あと(余談ですが)、引用した言葉たちの紹介のあと、文体が変わります。その方がわたしの中の人がしっくりくるみたいで、でもこれ以前に書いたものはそれがしっくりくるみたいで、直せませんでした。これも「伝えたい」ことに含まれるので、先に書いておきました。

では、ここからが本題です。

おはようございます☺️🫧

伝えるってなんだろ
伝わるってなんだろ
伝えたいってなんだろ
伝われってなんだろ

みたいな気持ち

\ 人に云う-`📢⋆/

云う、ってなんだろ

言葉にならないものを共有したくて言葉を使うしかない矛盾のあいだに立ち上る言葉と言葉じゃないもの、それを共有する(分かち合う)こと

それが伝えるなのであれば
そこにある自我は伝えたいものにとって邪魔でしかないのだなぁ

伝えたいと思えば思うほど伝わらない理由ってこういうことなんだ😌🫧

伝えたいとき、伝える以外のものは要らない

「伝えたい」ことほど「伝える」に徹する

「伝えたい」と「伝える」は圧倒的に違う

自分の中に生まれるざわつき(みたいなもの、人によって表現違うと思われ〼)に気を取られれば取られるほど、「伝える」からズレる

よって、「伝えたい」は伝わらない
「伝えたい気持ち」は、伝わるかもね

だから、伝えたいことが「伝えたい気持ち」なのであればそれでいいと思う

何を「伝える」のか
何を「伝えたい」のか

無意識に自分が選んでいる行為の真ん中を見極める😌💧

わたしはここがすごく混ざる。
改めて言葉にしてみたら、最初に書いている「伝える」「伝わる」「伝えたい」「伝われ」は、自分の心の在り方によって全く違うことが起こってしまったり、「伝える」ということそのものをしているようで大きくズレたことをしてしまう…が、本人は無自覚、みたいなことは用意に起こってしまう。容易に起こってしまう、と書いたがこれはむしろ知らぬうちに蔓延していると言った方が今わたしの目に映る世界のニュアンスとしては正しいかもしれない。つまり、わたしにとってその境界線が限りなく有耶無耶であるということに気が付いた、ということ。

わたしは「伝える」ということについてものすごく思い入れが強いし、その分トラウマもある。伝えたいことで自分の内側が満ちているのに、上手く伝わらない葛藤がある。そうしたいと思うのに、それができないという恐れが常に背中合わせ…というか、その恐れに背中を預けざるを得ない状況というか、つまり自分にとっての「愛」が「恐れ」とバディを組んでいるような感じ。

この、「愛」と「恐れ」がバディを組んでいる場所が、ホロスコープでは《キロン》という小惑星が象徴するものなのではないか?という仮説に辿り着いた。なぜならば、紹介した一連のスレッドを書いている途中から、これはわたしの双子座のキロンの話だなと感じていたからだ(ちなみにハウスは7ハウス)。

そして、この仮説はおそらく間違っていないと思う。なぜなら、自分自信を表現する(「愛(I)」を出す)ときにバディを組むのが「恐れ」ではなく「愛」だったら、わたし(たち)は自分を表現するときに喜びしかなく、そのvibesで届けられるものはすべて豊かさとして循環していくに違いないからだ。だって、そもそもそこにあるのは「愛(I)」なのだから。

キロンとはやけに自我が色濃くでる場所なのかもしれない。ということは、わたしたちが「恐れ」ているのは実は「愛する」ことなのかもしれない。それは、そのままの自分でいるということなのかもしれない。そこには、色んなことが絡み合って(自分以外の世界の、或いは時代の、或いはそういう必要があって)そうなっているという背景はあるにしろ、その暗黙の了解として流れている不文律は、気付けば越えられるものなのだ。むしろ、超えるものとして与えられているギフトなのだと思う。

わたし「愛(I)」を表して出していく、表現していく、createしていく、分かちあっていく。これらは全て同じことの言い換えで、その真ん中にあるものは《ただわたしである=be 或いは being》だ。わたしたちは、《ただわたしである》を遊びplayにきている。それは宇宙にとって何よりも尊い祈りprayである。みんなそのことに【鍵】をかけている。自分が自分であることが、この世界において何よりも大切で尊いことだなんて、考えてはいけないと潜在意識的に線を引いている/引かされているのだ。

だからこれは遊戯play / gameでもある。気付いた人から抜けられる遊びでありゲーム。そこにいることで自分に制限をかけるゲーム。豊かさには手が届かない、伸ばしてはいけないというゲーム。そこには常に、《そのままの自分であることに対する恐れ=罪悪感》があるはずだ。だったら、その場所こそが「愛」と「恐れ」が背中合わせでバディを組んでいる場所であり、解放すべき思考の枠であり、超えるべき魂の意図なのだ。

わたしたちがそこを超えていくことが宇宙の意図であり光であり愛(I)なのだから、そのために敢えて、「やけに自我が色濃くでる場所」としてfocusしやすくなるように、設定されているのだろう。導かれるままに進めば、そこに道は開かれる。未知は既知で、そこにあるのは《豊かさ》なのだから。豊かさとは、《ただわたしである=be 或いは being》のことで、その結果世界にそれが満ちてしまう循環が、既にそこにあった(与えられていた)と気付くことなのだから。

ということで、このはなしはここまで。
おそらく、わたしを通して出てきたmessageなので、ただ「伝える」ことが大事だと思いました。そのために不要な自我により孕まれる空気感なるものはなるべく排除したつもりです。
お楽しみいただけていたら幸いです。

今日も、佳き1日を☺️🌸




☟Xにてポストを確認されたい方は以下からどうぞ。



よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!