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星の動きを知覚したい

日々私には考えていることがある。
なぜ人は二分法で事象を捉えたがるのだろうと。これは以前記事にしたプラスマイナスの哲学の内容と大いに関わりのある問いだ。
好きか嫌いか。善いか悪いか。共同体に所属しているのかそうでないのか。
右か左か。
人はなぜこうも物事をどちらかでしか考えないのか。

そんなある時私は夜独りでこんなことを考えながら歩いていた。ふと何となく空を見上げた。その日は雲一つなく、寒い日だったことから星がよく見えた。星座に詳しくない私でもオリオン座を見て取ることができた。
そしてふとある考えが閃いた。
私は今、星を見ている。しかし、あたかもこれは1枚の写真のようにしか思えない。これは過去の「木と人間」でも述べた事だが、人間は本当にゆっくり、ゆっくりと位置や姿を変えるものを動いているとは感じない。
ここに先に述べた二分法の原因があるのではないだろうか。
そう閃いた。
つまり、善いと悪いのグラデーション的な部分を表現することを細かくしないのは、星の動きを知覚し得ないのと同じことなのではないかということだ。

タイトル通り星の動きを知覚することはできずとも、両極端に位置する善悪(など)のグラデーション部分を認識できるとどのような利点があるか考えてみた。
まず、立場の細分化。議論することになっても複雑な立場をとることによって参加者はより深い議論をすることができると考える。
さらに加えて言うなら各個人の内面にある表現の多様性の認知。好き、嫌いという言葉一つとってもそれに内包される程度の差と言うのを意識しながら、相手の話を聞くことができるようになる。
口では好ましいことをいっておきながら、内心では嫌っている場合や、逆も然りで、人間とは時たまアンビバレントな感情を抱いて日々を過ごす生き物なのだ。

二分法で事象を捉えそれを口やコメントで発するということは何かと誤解を招きやすい。その理由は人間が星の動きを知覚し得ないからだ。というと語弊しかない気がするが、正確に言うなら、星の動きを知覚し得ない→好きと嫌いの間を表現しようとしないor認知しない。という風に表せるだろうか。

壮麗なオリオンを眼にした時、私は星の動きを知覚することはできなかった。私は気づけば現代人になっていた。星と星の関係に名前を付けるという発想も失っていたことに気付いた。

夜の星空は図らずも私に多くのことを教えてくれた。


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